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楽園おんがく Vol.13:大城志津子 インタビュー

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旅と音楽をこよなく愛する、沖縄在住ライター 栗本 斉による連載企画。第13回は沖縄民謡界の巨匠 大城志津子に直撃インタビュー。

 もしかしたら、最後の巨匠といってもいいのかもしれない。1947年に石垣島で生まれ、16歳にして名曲「朝花」でデビュー。十代にして一躍民謡界のトップ歌手となった大城志津子は、誰もがリスペクトする存在だ。

大城志津子

 彼女が名を上げたのは、三線の早弾きを駆使したカチャーシーだ。ひとたびステージに登場すると、誰もが踊り出さずにはいられなかったという。民謡クラブ「ハンタ原」を30年間経営し、毎日のようにステージを大盛り上げしていたが、体調を崩して2005年に閉店。その後はしばらく表舞台に立つことはめったになかった。

 しかし、このたび誰もが待ち望んでいた新作『我した島唄~大城志津子決定盤』を発表。「我した島唄」と「寄らてぃ島うた」という本作のために書き下ろされた新曲2曲や、デビュー曲の再演「朝花」といった話題曲の他、「里が真心」や「恋忍心」のような情歌に、「運ちゃん暮し」や「かねる病気やくんぴらかち」といったコミカルなナンバーまで、早弾きのイメージとはまた違う大城志津子の魅力に溢れている。その味わい深い歌と三線の響きは、まさにブルーズといってもいい枯れた味わい。“沖縄民謡の至宝”をたっぷり堪能できる一枚といえる。

 ここでは、年輪に刻まれた巨匠のインタビューをお届けしたい。

大喜びで家に帰って「父ちゃん、私三線弾けるよ」って自慢したよ

――志津子さんは、那覇ではなく八重山出身なんですよね。どんな子どもだったんですか。

大城志津子:もう、ちっちゃい頃から歌ってたよ。あの頃はレコードなんて無いから、芝居をしょっちゅう観に行ってね。そこで歌を覚えるわけ。それで覚えた歌を、学校から帰ってきたら三線弾いて「昨日のメロディはどんなだったかな」って探ってね。毎日のように稽古していたんだよ。

――最初に三線を弾いたことを覚えていますか。

大城志津子:「浜千鳥」っていう歌があって“トゥーン、テンテン”というのを2回繰り返すんだけど、その曲を少し弾けたことは覚えてるよ。ある日、隣の家から三線の音が聞こえてきたから、行ってみたわけ。そしたら「なんか歌え」っていわれて、置いてあった三線をちょっと弾いてみたわけさ。歌はそれまでも出来よったけど、三線はその時初めて。同じこと2回繰り返すだけなんだけど、そりゃもう出来た気持ちさ。大喜びで家に帰って「父ちゃん、私三線弾けるよ」って自慢したよ。

――それからは三線一筋ですか。

大城志津子:そう。親に怒られたりして泣くときは、悲しい曲弾いて泣いてた。そんな想い出があるね。

――八重山から那覇に出てきて、すごく努力されたんですよね。

大城志津子:出てきた時はとにかく三線を弾いてやるぞ、という気持ちだけ。最初は先生に付くつもりだったんだけど、那覇は道もバスもさっぱりわからんさ。だからら、親に手紙書いたわけ。「テープレコーダーさえあれば勉強できるから買ってくれ」って。そしたら送ってくれてね。それで朝の4時から起きて、ラジオの民謡番組を録音するのさ。そして、8時になったら隣の工場の機械がボンって鳴るから、私も音を出し始めるわけ。ずっと12時まで弾いて、ちょっと休憩して、終わったらまた始めて夜まで。時間が足りない時は、どこか弾ける場所はないかと探して、奥武山球場や漫湖公園に行ったり。ガードマンがきて追われたりすることもあったけどね(笑)。

――16歳でデビューしても、その生活は続いていたんですか。

大城志津子:そう、とにかくいっぱい曲を覚えんといかんと思ってよ。情歌のような昔から歌っている曲はすぐに出来るようになったんだけど、毛遊び(注:もうあしび。若い男女が野原に集まり、三線に合わせて即興や掛け合いで歌を競い合った集会。風紀上の理由で何度も禁止された。)の曲なんかは、それまでも聴いてもないからよ。自分がわからないものは、全部マスターせんといかんと思ってたし。でも、その時に練習した曲は、後々に自分の持ち歌になったよ。

――その後、「ハンタ原」という民謡のお店を開いたんですよね。2005年に閉めるまで30年間営業されていたとか。

大城志津子:そう、毎日歌っていたよ。休みもほとんどないし、休み作っても、その日にレコーディングとかテレビとか他のスケジュールが入るから、休めないわけ。テレビのある前日に限って、遅くまでお店にお客が来るんよ。朝まで歌って、そのまま寝ないでテレビに出た時もあるよ。まるで24時間営業だったね。

――それを30年も続けていたって、すごいですね。

大城志津子:さすがに、ちょっと体調崩したもんだから、そろそろ休めということかなと思ってね。私なんか倒れんとわからんからよ。それで店を閉めたんですよ。あの店には、先生のような人たちがいっぱい来て歌っていったんだよ。あとは各地区のベテランの先輩とかね。こういう人たちがお店に来たら、ツーカーで反応しあってね。どんなしても私は三線でついていくから、みんな心地良く歌うわけ。お客さんも最高だったし、いつもいい気持ちで客と舞台が一緒になっている喜びの店だったね。芸能の大物もたくさん来てくれて、歌わなくてもこっそり隠れてやって来た。このことは、店をやってた誇りだし宝だね。

――じゃあ、今はのんびりと過ごされているんですか。

大城志津子:今は曲を作ったり、弟子たちを教えたり。暇な時は、曲を一杯作っているのよ。自分で歌わんでも、他の人たちにプレゼントすればいいかって、今残せるのはこんなことくらいしか私にはできんから。

――では、曲作りは続けているんですね。

大城志津子:そう、変わってないよ。自分がもう辞めたと思う時が来るまでね。

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わたしは、いつも恋してきたから。空想の世界でも、それは心の恋。

CD
▲『我した島唄~大城志津子決定盤』

――今回のアルバム『我した島唄~大城志津子決定盤』は、どういうきっかけで生まれたのですか。

大城志津子:ちょっと前に弟子のLucy(長嶺ルーシー)のリサイタルがあって、その時に歌ったら新聞にいいように書かれたの。それと、ベテランの人たちもわざわざ寄ってきて「感動した」っていってくれるものだから、こんな歌でもよかったんだなあと思って。また、その時が初めてだというお客さんも、シーンとしてみんな聴いてくれて。だから、もうちょっとやってみようかなって思ってね。

――アルバムを作ろうと思った時点で、曲は決まっていたんですか。

大城志津子:とにかく自分が歌いたいと思った曲を選んだんだよ。このアルバムに入っているような情歌は、今回録音するのが初めて。那覇に来るまでは日課のようにこういうのばっかり歌ってたんだけど、こっち来てからは早弾きのカチャーシーばかり歌っていたから。そして、選んだ曲をスタジオに入って全部歌って、このなかから選んでくださいってね。あと、新曲も2曲作ってもらったの。

――「我した島唄」がその一曲ですね。

大城志津子:曲を作ってくれた(普久原)恒勇兄さんとは親戚ではあるのだけど、兄さんの歌は一度も歌ったことはないのよ。

――それは意外です。

大城志津子:なぜかというと、新曲は自分で作るようにしてたからね。だから結果的には、いい想い出が作れてよかったなあと思ってるよ。

――もうひとつの新曲は「寄らてぃ島うた」ですね。

大城志津子:歌詞を書いてくれた(上原)直彦さんとはね、お互い同じ時代を生きてきたという記念にもなったよ。「ゆゆぬあるえだや 歌てぃしでぃら」という言葉にも励まされたしね。“この世の中があるうちは歌い続けて終わろうよ”っていう歌詞なんだよ。だから歌えるうちは、機会があればやったほうがいいんだなあと自分に言い聞かせてる。唄サーはね、歌いながら死んでいかんとね。

――かと思えば、デビュー曲の「朝花」が入っています。当時と今ではやはり感じることは違いますか。

大城志津子:まず、声がまったく違うよね。わたしは小学生の時にすでに喉をつぶしてね。当時録音した時は、それが治りかけてた頃だったの。そこからまた声は変わってるからね。早弾きのカチャーシーを弾くようになってから、何回喉をつぶしたかわからん。早弾きっていうのはね、1曲で普通の情歌10曲に匹敵するくらい喉が疲れるのよ。だから、早弾きの録音でまともに最後まで歌っている人、ひとりもいないよ(笑)。登川(誠仁)先生でも、喜納昌永さんでも。カチャーシーって、ただダラダラ歌ってても、誰も踊る気にはならんわけさ。踊らしてやるぞというのが、カチャーシーの世界だから。

――逆に情歌は恋の歌だし、ちゃんと恋愛してこないと歌えない、なんていいますよね。

大城志津子:わたしは、いつも恋してきたから。空想の世界でも、それは心の恋。曲作って弟子に見せたら、「先生、今恋してるんじゃないの?」って言われたことがあるけど、「わたしはいつも恋してるよ」っていうわけ。空想だったら、いくらでも際限ないからね。

――他にもいろんな曲が入っていますね。

大城志津子:今回のアルバムは、若い頃に歌ってた曲とか、わたしが歌いそうにないような新しいタイプの曲なんかが入っている。お笑いみたいな系統の歌もあるし、もちろん情歌もね。小さい頃はこういう情歌はいっぱい歌っていたのに、これまでに録音してないから、やってみようかなあと思ってね。

言葉っていうのは心のことを思って、
心に伴う気持ちで歌わんと伝わらんのよ。

――スタジオでは気持ち良く歌えましたか。

大城志津子

大城志津子:自分がやる時はいつも、歌の世界に入ってしまうからね。だから、本当はもっとたくさん録ったんだよ。この道には好きで入っているから、いったん歌い出したら止まらんよ。なんでもかんでも自分が歌いたいと思う曲はどんどん歌ったね。

――今回は、お弟子さんのLucyさんなど何人か参加していますね。事前にきっちり合わせたりしたのですか。

大城志津子:そうだね。でも、普段の稽古はもちろん厳しいんだけど、スタジオに入ってからはどうこういうもんじゃない。いざ本番になれば、もう出来るようにしかならないから。心作りを一番大事にしないとね。

――志津子さんは六弦(注:6本の弦がある特殊な三線)を弾いていますよね。

大城志津子:よく聞かれるけどさ。意味があって六弦が生まれたわけよ。わたしが喉をつぶしたときに、自分で自分の声に合った音を作らんといかんとおもって、あの六弦が生まれたんだよ。

――それまでに弾いている人はいなかったんですか。

大城志津子:いなかったね。わたしが最初に人前で弾いたら、その後から流行りだした。登川先生もわたしより後だからね。六弦だったら、どの調子にも合わせられるのよ。今回使ったのは、これまでに録音したことがないんだけど、弟子からのプレゼントでもらったからね。今回の録音に活かすことが出来てよかったよ。Lucyが伴奏で弾いた楽器とも合うような音だったしね。

――出来上がったアルバムの感想はいかがですか。久しぶりの録音だと思うのですが。

大城志津子:聴いていたら、自分の心が歌の中の気持ちになって、この胸にこみあげるものがあるね。やっぱり、あの時に込めた気持ちがあるから。声には出さないけど、胸に迫るものがあったよ。

――ウチナーグチが理解できない僕のような内地の人間でも、グッと胸に迫るものがあります。

大城志津子:どんな歌でも作った人の心があるからね。曲を作った人は、胸にある想いを収めきれなくて筆を執るんだよ。でも、いくらいい言葉使っても、棒読みじゃ伝わらん。言葉っていうのは心のことを思って、心に伴う気持ちで歌わんと伝わらんのよ。

大城志津子「我した島唄 ~大城志津子決定盤~」

我した島唄 ~大城志津子決定盤~

2014/04/23 RELEASE
RES-232 ¥ 3,080(税込)

詳細・購入はこちら

Disc01
  1. 01.我した島唄
  2. 02.運ちゃん暮し
  3. 03.寄らてぃ島うた
  4. 04.新ディグぬ花
  5. 05.朝花
  6. 06.里が真心
  7. 07.かねる病気やくんぴらかち
  8. 08.命ぬ洗濯
  9. 09.恋忍心
  10. 10.恋し沖縄
  11. 11.新シミルスルヌガ
  12. 12.除夜の鐘
  13. 13.御年日ぬ唄

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