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祝!初来日!!リッチー・フューレイ特集
60年代後半から始まったウェスト・コースト・ロック・シーン勃興期の中核を担うバッファロー・スプリングフィールドとポコに在籍、ニール・ヤングやスティーヴン・スティルス、ジム・メッシーナなど、70年代アメリカン・ロックの重要人物と深く関わり、その後もカントリー・ロック・シーンに影響を与え続けるリッチー・フューレイがいよいよ10月に初来日を果たす。アメリカン・ロックのルーツを探る上で見過ごせない重要人物の一人による、(本人曰く)キャリアを総括する本公演が歴史的な一夜となることは確実だ。
■リッチー・フューレイ公演情報
2013年10月5日(土)~6日(日) ビルボードライブ東京
2013年10月8日(火) ビルボードライブ大阪
衝突する原石
ヒップホップのオリジネイターであるパブリック・エネミー。彼らは現体制や既存の権威を批判、社会問題に対しても積極的に発言することで知られる。彼らの作品に、スパイク・リーの映画『ラスト・ゲーム』の主題歌「ヒー・ガット・ゲーム」が有る。
▲ Buffalo Springfield「For What Its Worth」
このサンプリング・ソースが、バッファロー・スプリングフィールド「フォー・ホワット」。舌鋒鋭いリリックで名を成したパブリック・エネミーの選んだソースに、意味が無いはずが無い。そして、この元曲のヴォーカルが、本特集の主人公、リッチー・フューレイだ。
『バッファロー・スプリングフィールド』(1966)
バッファロー・スプリングフィールド
バッファロー・スプリングフィールドは、1966年12月にファースト・アルバム「バッファロー・スプリングフィールド」でデビュー。メンバーには、リッチー・フューレイ(ヴォーカル&ギター)、スティーヴン・スティルス(同)、ニール・ヤング(同)がいて、それぞれ22歳、21歳、20歳。若い彼らの個性の激しいぶつかり合いが、当時の西海岸シーンの新たな地平を切り開いた。
もし、あの時、彼らが偶然の再会を果たさなければ、アメリカン・ロックの始まりはきっと5年は遅れていただろう。
アルバム3枚、ヒット曲「フォー・ホワット」1曲のみを残し、わずか2年で解散したバッファロー・スプリングフィールドは、ボブ・ディランがザ・バンドと地下室で創り上げつつあった新しいロックの形に、誰よりも早く辿り着き、オリジナルに昇華することが出来た最初のグループだ。
そして、もし、彼らが解散を選ばなければ、ビートルズに並ぶ、アメリカン・ロックを代表するバンドとなっていただろう(ただし、それならCSN&Yもポコもニール・ヤングの初期傑作群も生まれないのだけれど)。
66年11月、LAのナイトクラブの閉鎖に抗議する若者達に対する警察の暴力行為を題材にスティルスは「フォー・ホワット」を書き上げ、これがヒット。12月に発売していたファースト・アルバムの曲を差替え翌67年に再リリース、バンド名を一気に押し上げた。
リッチー・フューレイのポップなヴォーカルをフィーチャーし、3人のギターとコーラスを当時最新のアンサンブルで構成するアルバムになるはずが、そのコンセプトを逸脱しようとするニール・ヤングとスティーヴン・スティルスとの若さゆえの衝突が垣間見えて、その不穏な空気感が中毒性をもたらすファースト・アルバムが生み出された。
『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』(1967)
バッファロー・スプリングフィールド
グループ内で常態化していた緊張状態が逆に互いの能力を飛躍的に高めることになったのは、皮肉か幸運か。ヤングが断続的に脱退を繰り返すなか、フューレイは初めて自分の曲を、制作中のセカンド・アルバムに提供、これが、あたかもレノン=マッカートニーにハリスンが加わるかのように、作品に新しい個性を与え、67年11月に歴史に残る傑作『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』のリリースに繋がった。
ブリティッシュ・ビート、サイケデリック、フォーク・ロック、カントリー、ウォール・オブ・サウンド、R&Bまで、当時の音楽を全て消化し、彼らのオリジナリティを無理矢理もぎ取った、無骨なセカンド・アルバムの誕生だ。
『ラスト・タイム・アラウンド』(1968)
バッファロー・スプリングフィールド
ヤングのカナダ時代からの旧友でもあったブルース・パーマー(ベース)が68年1月に強制送還され、後任に前作にも数曲エンジニアで参加していたジム・メッシーナが加入、彼のプロデュースで3月まで次作のレコーディングは行われたが、グループは瓦解、5月に解散コンサートを行う。その後、契約上の理由から未収録楽曲を集め、メンバーがバラバラに制作した“ホワイト・アルバム”的な『ラスト・タイム・アラウンド』をジムのプロデュースで同年リリース。これは、既にバンド感は無いものの、それぞれの楽曲のクオリティは高く、今後の活躍を予感させる作品だ。
花開く才能
バッファロー・スプリングフィールドのラスト・アルバムをリリースした後、リッチーはジム、ラスティと共に、次のバンド結成へ向けた準備を始める。ランディ・マイズナー(ヴォーカル&ベース)、ジョージ・グランサム(ヴォーカル&ドラムス)の5人組でポコを結成、ファースト・アルバムの制作を始めた。その制作過程でランディ・マイズナーが脱退、ティモシー・B・シュミットが加入した(ランディは後にグレン・フライ、ドン・ヘンリーらと共にイーグルスのオリジナル・メンバーとなる)。
前グループで果たせなかった、軽快なカントリー・ロックに、フォークをベースとした美しいコーラスを乗せる、アメリカン・ポップ・ロックの雛形がここに誕生する。これを源流に、AORやポップ・カントリーなど時代によって名前を変えながらも、今も愛される西海岸サウンドは深化、拡散を続けていくこととなる。
ポコは今もメンバーを変えながら活動を継続し、20タイトルを超えるアルバムをリリースしている。リッチー在籍時のアルバムは、初期の6タイトルと、オリジナル・メンバーが再集結した20周年記念の89年『Legacy』1タイトルで、それらのアルバムの制作過程において、リッチーは前述のサウンドのアップデートを続け、ソウルやスワンプなどの要素を織り交ぜながらも、一貫した作家性を保持したカントリー・ロックを作り続けた。なかでも、71年にリリースされた3作目『Deliverin’』は演奏能力の高さを示すライヴ・アルバムで、新曲もバッファロー時代の旧作も織り交ぜた構成で、リッチー時代のポコの入門盤として最も有効な作品だ。
▲ The Souther Hillman Furay Band「Fallin' in Love」
73年にポコを脱退し、アサイラム・レコードのデヴィッド・ゲフィンの要請により、ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成。イーグルスの成功を横目に将来を大いに期待されていたJ.D.サウザー、リッチーと同様のアプローチでカントリー・ロックを切り開いたフライング・ブリトー・ブラザーズやスティーヴン・スティルス率いるマナサスに参加していたクリス・ヒルマンらによるスーパー・グループは、第二のCSN&Yと称され、74年にリリースされたファースト・アルバム『サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド』収録のリッチー作「Fallin’ In Love」がスマッシュ・ヒットする。
『サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド』(1967)
サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド
ところが、各々の楽曲のクオリティは予想を裏切らない素晴らしい出来だったものの、スーパー・グループの宿命か、わずか2枚のアルバムで、解散してしまう。とはいえ、この2タイトルはカントリー・ロックをネクスト・レヴェルに押し上げ、それぞれが後に優れたソロ・アルバムを作り出す契機となった、という意味で、意義のあるセッションだったと言えよう。
バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン!
▲ Buffalo Springfield at Bonnaroo 2011
その後、リッチー・フューレイは、70年代後半以降も、制作およびライヴ活動を続けている。本人名義のバンドに、時折ポコのオリジナル・メンバーも顔を出すなど、往年のファンを喜ばせるサービス精神旺盛なライヴの姿は今なお健在だ。
そして、バッファロー・スプリングフィールド以降袂を分かったスティーヴン・スティルスやニール・ヤングと、2010年にチャリティー・コンサートで再結成を果たし、往年のファンを狂喜させた。その後2011年にもテネシーの野外フェス、ボナルー・フェスティヴァルにも、ドクター・ジョンやザ・ブラック・キーズらと共にステージに立ち、3人のハーモニーは複数の観客によって動画サイトにポストされ、世界中の熱心なファンの視線を集め続けている。
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