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<インタビュー>水野良樹(いきものがかり)が語る、本が与えてくれる“受け取り手”への向き合い方のヒント【WITH BOOKS】

Interview & Text:Maiko Murata
ビルボードジャパンが、2025年11月6日に総合書籍チャート“Billboard JAPAN Book Charts”をローンチした。このチャートは、紙の書籍(書店/EC)と電子書籍の売上、サブスクリプション、図書館での貸し出しやSNSでのリアクションなどを合算した日本初の総合ブックチャートだ。
音楽チャートで知られるビルボードジャパンがこのチャートを手掛けることにかかり、書籍や文筆と縁深いアーティスト、また音楽と縁深い作家へ、自身の書籍や音楽とのかかわりについて訊くインタビュー企画【WITH BOOKS】を実施する。記念すべきアーティスト初回は、いきものがかりとして老若男女に届く歌詞を手がけるほか、“清志まれ”名義で小説を執筆するなど、文筆業でもその豊かな才能を発揮している水野良樹が登場。歌と文章のどちらも書く彼ならではの、それぞれにおける言葉の扱い方や表現の違い、そして“表現”への向き合い方まで、濃い話を訊くことができた。
人文学系の本が与えてくれるヒント
――まずは書籍についてのお話から聞かせてください。水野さんは普段、どんな本を読まれますか?
水野良樹:この仕事をやっていることと、元々大学では社会学部で――大学時代は全然勉強するような生徒ではなかったんですが、その影響もあって、人文学系の本をよく読むことが多いです。社会学や現象学を“かじる”というか、“勉強する”というよりは……本当に、全然顔も、名前も知らない人たちがたくさん(曲を)聴いてくれるじゃないですか。不特定多数の人が自分の作品を聴いて、しかも曲によっては「社会に影響を与える」っていうとちょっとおこがましいんですけど、たとえば誰かの卒業式や結婚式、人生の大事な場面に流れて、その人の思い出になっていくって、「これは一体どういうことなんだろう?」みたいな興味というか、人の生活に入り込んでいく恐怖感があるんです。それがどういうことだろう?と考えるときに、人文学系の本がいろいろヒントを与えてくれるというか。そういうことが、読書するタイミングでは多いかなと思います。あとは、様々な方と対談させていただく機会とか、実際に作家さんなど文筆の最前線におられる方と話す機会も多いので、そういうタイミングでその方(対談相手)の本を読んだり、小説を読んだりして、どんどん興味が広がっていくこともあります。“読書家”というわけではないけれど、小説をちょっと読んだり、という感じですね。
――いま伺ったところだと、“研究”というような意味で本を読まれることが多いのかなと感じました。そんななかで、好きな作家の方――人文系だと“学者”の方、のほうが近いかもしれませんが、そういう方はいらっしゃいますか。
水野:ここ数年すごく影響を受けたというか、よく読んだのは、哲学者の鷲田清一さん。皆さんの身近なところだと「折々のことば」(『朝日新聞』掲載のコラム)が有名かなと思います。鷲田さんの本はいくつか読んでいて、いちばん影響を受けたのは『「待つ」ということ』という本。人間にとって「待つ」という行為はどういうものなのか?みたいなことを延々と語り続ける本なんですけど、それをテーマに小説を書いたりしたことがあるくらい(『おもいでがまっている』)すごく影響を受けました。
あと『「聴く」ことの力』という本もあって、これは、たとえば震災とか、非常に悲劇的な、トラウマになるような出来事に遭ってしまった方々が、その体験をどう語るのか、という本で。本の中ではもっと膨大に書かれているんですけれど、人間が「言葉にする」とか「語る」っていう行為は、簡単なものではないんです。
インタビュアーの人たちっていうのは、僕も含めてですけど、相手の言葉を奪ってしまうというか、「それってこういう経験なんじゃないですか」「すごく悲しかったですよね」とか、その対象者が本当は感じていることを簡単に言葉にしてしまったり、対象者が(自分で)語らなきゃいけないことを勝手に整理してしまったりっていうことがあるんじゃないか?みたいなことがありますよね。
で、そういう“聴く”相手の言葉がぽろっとこぼれやすいようにするにはどうしたらいいかとか、そういうのを“待つ”力が必要なんじゃないか、みたいなことが、もっと複雑にたくさん語られているんですけど……そういう本を読んだりすると、「歌もそうだな」と思うようになるんです。どちらかというと、音楽はメッセージを“伝えるもの”、情報を“与える”側だと思われがちなんですけど。僕らの楽曲とかは特に顕著だと思うんですが、実際は、聴いてくださった方が“何を思うか”が結構大事なことで。
結婚式だとか卒業式とかには、それぞれの“固有の物語”があるじゃないですか。たとえば卒業式なら、大切な先生のことを思い浮かべる方もいれば、ずっと仲良くしていた友達のことを思い浮かべる方、もしくは「こんな学校嫌だ、もう抜け出したい」っていう嫌な思い出として思い浮かべる方もいて、それぞれ違う。それらの、聴く人の感情を“聴き出す”ことが、音楽にとってすごく大事な側面だなと思っていて。そういうのを、鷲田さんの本から(学んで)考えが変わっていって、「これは歌に当てはめたらどうなんだろう?」とか、そういう読み方をしています。そういう意味では、鷲田さんにここ数年間はすごく影響を受けているかもしれないですね。
――ありがとうございます。実は、今回水野さんにインタビューをさせていただけることが決まった時に、改めていきものがかりの歌詞について考えたんです。私はいきものがかりに出会ったのが小学生の頃だったんですが、その時から聴いている曲――たとえば「SAKURA」を今改めて聴くと、思い起こす景色が、当時聴いた時と違ったりするんです。今の私が思う景色と、小学生の私が思っていた景色、それぞれ別のものであってもきれいに当てはまる“普遍性”が、水野さんの詞の素晴らしい部分のひとつだなと考えていたところでした。
その“普遍性”という点だと、音楽における歌詞と、小説だとかのテキストでは、言葉の置き方や「どの程度まで定義してしまうか」というような部分が変わってこられるのかなと思っていて。水野さんはどちらも書かれる方ですが、そこで表現や、言葉の綴り方・置き方、音楽においては音とのシナジーなどで、違いや工夫されている部分はありますか。
水野:そうですね。たとえば、本だったら読者、音楽だったらリスナーというか、鑑賞者側の想像力をどれぐらい使うかという“量”の度合いや、鑑賞者の想像力を貸していただく“方法”が、歌と文章、特に小説では違うかなとは思っています。
歌だと、お渡しできる情報がすごく少ないんです。簡単に言えば“文字数”が、たぶん多くても数百文字じゃないですか。簡単に言うと、記号的なイメージを与える場合のほうが多いと思うんです。だから限定がなかなかしにくい。限定がしにくいということは、聴いてくださる皆さんの想像力をかなりの量で借りないと、実は作品の世界観って成立しなくて。これが歌の面白さであり、弱さでもあると思うんです。小説の場合は……たとえば、今僕の目の前にはテーブルがありますけど、このテーブルがどんなテーブルかって、下手したら何十ページでも書けちゃうじゃないですか。情報を与えようと思えばいくらでも与えられちゃうけれど、その情報の量が多いことによって、読者の皆さんの想像の方向性が変わってくると思うんです。「テーブル」と言われた時に、冷たいプラスチックのテーブルと、なんだか温もりのある木のテーブルと、(文章の)表現の中で違ったら、もうそこでイメージの方向性が全然違う。全然違う想像が始まっちゃいますよね。
そういう、鑑賞者の想像力との……なんというか、“対話の仕方”が小説と歌ではだいぶ違う。僕は両方書くチャンスをいただいていますが、そこになんだか面白さがあるなと思います。僕は歌から始まった人間なので、どれだけ少ない情報で皆さんに想像していただくか?ということばかりやっていたから、(文章は)「うわ、すごいマス目あるよ!」「なんでも書けちゃうよ」みたいに感じる難しさと面白さがあって(笑)。どっちも楽しいです。
――いま、対象者との“対話”とおっしゃったのがすごく印象的でした。お話を聞きながら、おっしゃっていることは受け取り手が想像する景色を「デザインする」というか、設計図を書いていくようなことなのかな?と思っていたんですが、“対話”という表現を使われたことで、どちらかというと「相手の中にあるものを引き出していく」というような、相手ありきのイメージなのかなとイメージが変わったんです。たぶん、水野さんご自身の表現における、受け取り手への“意識の向け方”にも深くかかわっておられるスタンスのような気がするんですが、いかがでしょうか。
水野:そうですね……よく言われるんですけど、いきものがかりって、万人受けを目指してるタイプのグループじゃないですか(笑)。「この人はこういう気持ちなんじゃないか」とか、「こうしたらウケるじゃないか」っていうことがあたかも全てわかっていて、それを今おっしゃるように”デザイン”して、相手を誘導するかのように、テクニック的に作ってるんじゃないかって言われることもあって。
それが100パーセントそうじゃないとは言い切れません。もちろん、こんなふうに思ってほしいとか、こういう風な景色が見えるんじゃないかな?と想像することはあるんですけど、それがほとんど当たらないということも経験上分かっているんです。あと、相手の感情はコントロールできないので、“提案”はできるけど“誘導”はできない、ということはあると思うんですよね。あと、相手の主格を奪ってしまうというか、能動性を奪ってしまうと、エンタメとしてすごくつまらないものになる。やっぱりご本人――聴いた本人、読んだ本人が、自分の中で想像力が膨らんで、ブワッて興奮しないと……それがいちばん強いので。
相手の主格を奪わないで、どれだけ魅力的な提案ができるか、みたいな……なんだかコンサルみたいで怖いですけど(笑)、でも「相手が僕の理解できない人だ」という意識って、すごく大事だと思いますね。
表現とは“中間物”を置くこと
――なるほど……! となると、余計“表現”とはなんだろう?と思うところがあって。“表現”って、発信する側から主体的に生まれることですよね。水野さんが今おっしゃったことも、相手に対してどうするか――「コンサル」という表現も使ってくださいましたが、なんというか、一般的な「表現する」という言葉とはなんだか印象が違うなと思ったんです。水野さんにとっての“表現”とは何なんでしょうか?
水野:僕は“中間物”を置ければいいなと思っていて。社会がこうなってほしいという考えが……当然、普通のいち社会人としてたくさんあるんです。たとえば、政治の話題になれば、こういう風な政策を支持したいとか、こういう風な社会になってほしいというのはあるんですけど。それを、音楽や表現物の中に“表現”として形になると、「それ、別に議論すればいいんじゃないか?」と僕は思うというか。表現物、“エンタメ”として議論するんじゃなくて、それは普通に“論理”として語っていくほうがいいんじゃないかと思っちゃうんですよね。
ただ、なんで表現するかっていうと、自分の主張と相手の主張を重ね合わせるということは、すごく究極の話、殺し合いになっちゃうと思うんですよ。やっぱり、譲れない部分があるから。Aという政策を選んだらすごく生活が困窮してしまう人がいるとか、必ず誰かが犠牲になってしまう。どこかで線を引かなきゃいけない、白黒はっきりつけなきゃいけないっていうのが政治における“議論”の難しさではあると思うんですけど、一方で“表現”というのは、白黒つけないで、どう「繋がるか」っていうところだと思うんですよね。それが文化の強さだと思っていて。
なので、「提案」っていう言い方をしちゃったけれど、僕的には「こんな人の愛し方があるんじゃないかと思います」とか、ここは全然違う考えの違う文化の人でも、この「人を愛する」という、この機序のこの部分は同じなんじゃないですか?とか……“中間物”をどうにか置く、っていうことが、近いのかなって最近は思っています。……すごく難しいご質問で(笑)、本当は僕もわからないです。表現で飯を食っていて、すごく矛盾しているんですけど。
……ちょっと話がそれますが、先ほど、小学生の頃に僕らの曲を聴いてくださって、大人になってから聴くとまた違う景色が見えるっておっしゃったじゃないですか。それって、作った僕らもそうなんです。やっぱり「SAKURA」を作った時の自分たちと、今見えている景色は全然違うので。しかも今みたいに、聴いてくださる方のストーリーが動いているのを隣で見ると、もうびっくりしちゃうというか。学生時代に自分の部屋で作った曲に、全然知らない若い人たちが自分の人生を重ね合わせて「なんか今聴くと違うなあ」とかおっしゃっていることが信じられない。よく考えたらとてつもない出来事じゃないですか。だから、なんだかよくわからないけれど、“表現”して形にしたら、自分たちからうまく“離れて”くれて、全然分かり合えなかったり、出会ったこともない方とかとの接点にそれがなってくれたり……。表現した作品が真ん中にあることによって、いろんな方と繋がることができたり、いろんな方と、経過した時間をともに語り合うことができる……みたいな。それが“表現”すること、表現物の面白さだなとすごく思います。
――私も業務として文章を書かせていただくことがよくあるんですが、私の場合だと、書くのはどうしても“創作物”ではなく、記事を“会社の人格”で書いているんです。私の制作物はビルボードジャパンの意見とほぼ同義に見られるもので、そこは私も強く意識していたりするんですが、水野さんが書かれるものって、いきものがかりの詞であれば「いきものがかりの曲」としてある意味水野さんと離れた部分にあるし、小説も水野さんとそもそも人称から異なって離れた部分にある……と、どういう位置関係にあるのかな?と思っていました。さっき“中間物”とおっしゃって、すごく納得感がありましたし、それは水野さんが社会や他の人にずっと目を向けておられることと繋がっているんだなと思いました。
だとすると、たとえば歌詞や小説に対して、特にエッセイに関しては、どちらかというと“水野良樹”さんそのものとしての発言、という位置づけなのかなと思います。ここは、やっぱり言葉の置き方だとか、人格とかが変わる感じはありますか?
水野:ああ……いやもう、本当に矛盾していますよね……(笑)。エッセイはやっぱり自分の考えの言語化に近いです。もちろん、商業誌に書いたエッセイだったりするので、やっぱり「読まれる」っていうこと、これでちょっと楽しんでいただかなきゃ、っていうことはもちろん意識していてそういう体裁は整えているんだろうけれど、やっぱり自分の考えを言語化しています。
あと、その言語化するっていう行為が、自分の考えをまとめることにもつながるので、それが楽しいっていうこともちょっとあると思うんですよ。やっぱり、言語化する過程でもいろんな考えが結構動いて、たぶん、その快感があるんだと思うんですよ。
――私も矛盾しつつですが、すっごくわかります。
水野:モヤモヤしているというか、なんとなくイメージはあるけど、意外と言語化するときに整理しないといけなくて、整理することの危うさ……そこで漏れるものがあるから危うさもあるんだろうけど、それを1回通るってのは楽しいし、多少の快感があるというか(笑)、面白くてやっているところはあります。
歌詞を書くうえでの
シンガー・吉岡聖恵の存在の大きさ
――ちなみに、いきものがかりの活動だと、水野さんが詞を書かれていても歌うのは水野さんではなく、吉岡聖恵さんですよね。でも「HIROBA」の活動では水野さんがご自身で歌われる曲もあります。“歌い手”が変わることで、詞としても書き方が変わったりとか、違いとかはあるのでしょうか?
水野:すごくあると思いますね。僕はたまたま、最初に出会ったシンガーが吉岡で。めちゃくちゃラッキーだったと思うんですけど、吉岡の声がなんというか……匿名性が強い声だったんです。吉岡の声は結構多くの方に知っていただけていると思うんですが、吉岡のモノマネって結構難しいと思うんです。たとえば森進一さんのハスキーな声って、誰にもできないからこそ、逆にモノマネするにはこの特徴を捉えれば一般の人でもやりやすいというか。すごく個性の強い、その人にしか持っていないものを持っている方って“モノマネしやすい”と思うんです。
吉岡の声は、もちろん吉岡しか出せない部分があるんですが、なんだか誰も真似できない。ある意味特徴が見えていなくて、それが、いろんな方がいろんな想像をしながら聴くことのできる“普遍性”を持ちやすい声だったと思うんですよね。(彼女の歌声の)“普遍性”によるような書き方をしているから、もし(吉岡が)聴いたらすぐにその人だ!ってわかる声だったら、僕は全然違う書き手になっていたと思います。吉岡に育ててもらったようなところがあるんです。
今、楽曲提供とかで他の方……いわゆる、もっと声に色が強くて、それが素晴らしいという方に書かせていただくときは、やっぱりそこを意識しながら、それが最も魅力的になるように仕上げます。また、その人の色に染めてくれるから何を作っても大丈夫、っていうパターンもあって。鈴木雅之さんとかは、やっぱ何でもマーチンさん色に染められる方なので、もう胸に飛び込めばいいだけ、という書き方もありますね。あと「HIROBA」では自分が致し方なく歌うっていう瞬間があるんですけど(笑)、その瞬間は、書いた人本人が歌うということで、やっぱりちょっと違う意味が加わっちゃう。それを意識しながら書かなきゃいけないんで、すごく難しいです。
“主格”の数の違いによる表現の違い、
その面白さ
――先ほど伺った中で、水野さんにとって歌詞や小説、またエッセイを書くことに関しては“アウトプット”に近いのかなと思って。この“アウトプット”3つにおいて、また中でも小説やエッセイ――文章を書くということは、歌詞を書くのとは“文字数”で大きく違いがある、ということをまさにお話ししていただきましたが、そことの言葉の向き合い方、出力方法に、相互関係や違いはあったりされますか?
水野:小説と歌で言うと、はっきりとした違いがひとつあって、歌は“主格”をいくつも出すことがなかなかできづらいフォーマットなんですね。たとえば「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)みたいな”対話”構造ぐらいが結構ギリギリというか。歌の中に、登場人物が10人出てくることってあんまりないじゃないですか。
――確かに!
水野:僕も、私も、あの子も、友達も……ていうのはなかなかなくて。デュエットで(1対1で)対話するくらいがギリギリなんです。だけど、小説は登場人物が10人出てくることって全然あり得るんですよね。実際、自分の小説も5人ぐらいの登場人物がそれぞれの視点で語るような書き方をしているんですけど、それは歌ではできないのでめちゃくちゃ楽しかったです。Aという登場人物から見えている景色、Bという登場人物から見えている景色……と、多数の視点から見えている景色を重ね合わせてひとつの物語を作れるというのは、歌ではなかなかできない。“小説”という、物語全体を俯瞰して群像劇として描く物語の構造だと、物語の”粒度”みたいのが高まるなという気持ちはすごくありました。
で、歌にはメロディーっていう重要な制限があるんです。前に、僕が尊敬している作詞家の松井五郎さんとお話ししたんですけど(※著書『うた/ことばラボ 「うた」と「ことば」についての14の対話』にて)「ああ」だけで、シンガーによっては十分なんだと。メロディーや、歌う方の声のもたらす情報で、「ああ」だけで細かく語らなくても、言わんとしてること、表現しようとしてることが伝わると。本当にそうだなと思ったんです。でも、逆に言うと「ああ」だけで伝わってしまうっていうことの怖さもあって。(表現の余地を)奪われちゃう……もっと細かいことを表現したかったのに、っていうこともあるわけで。だから、それが歌の面白さと難しさであるなと思いますね。小説には、「メロディー」というパワーは使えない。ただ、小説もなんだか”リズム”があるなというのはすごく思っていて。
――あー!
水野:韻律というか、リズムはあって……。どうしても僕は歌で育った人間なんで、長い文章になっても「なんかここら辺、サビになってほしいな」「ここで盛り上がってほしいな」というか、盛り上がりに入る手前では、ドラムフィルのようにちょっと出来事が起きてほしいな、とか思ってしまって(笑)。頭の構造がそうなっちゃっているな、というのはよく思います。だから、編集者の方に「あんまり劇的にしないでください」って言われることがあったんです。なんというか、「ここで『さあさあ来ますよ~!』みたいな書き方をしないでください」「ちょっと過剰です」って。悪い癖ですね(笑)。
“名著”と呼ばれているものは
ずっと生き生きしている
――(笑)。「サビの前で『さあ来ますよ』」というのはJ-POPのセオリーですし、そこは水野さんがこだわりを持ってらっしゃるところですよね。では、また本の話に戻らせてください。水野さんは、なにか読みたい本を探すとき、どういうふうな出会い方をされることが多いですか?
水野:本から本に出会っていくことが多いですね。鷲田さんに興味を持ったのも、木村敏さん(精神科医)の本を読んで、「あっ、こんな人がいるんだ!」と思ったのがきっかけでした。最初に手に取った本はすごく難しくて全部読み切れなかったんですけど、対談集を「対談だったら読めるかな」と思い手に取って。そこから(対談相手など)関連人物を読んでいく、という読み方をしていました。鷲田さんもその対談相手にいたり、巻末の解説を書かれたりしていて。あと、小説もひとりの作家さん――たとえば塩田武士さんとか、読み始めると、その人の作品をガーッと追っていったりして。次は塩田さんが参考にされている作家さんを次に追っていって……とやっていくことが多いですね。
――そういう、特定の人物の作品をたどっていったり、その方がリファレンスにしている方を追っていったり……というやり方は、音楽も同じように聴く方が多いんじゃないかと思います。水野さんはどうですか? ご自身の音楽の聴き方との共通性は感じますか?
水野:確かに、そういうことなのかもしれないですね。あと、あまりにも膨大な量があって、(探す)時間もそんなにないから……とにかく興味が動いたら読む、っていうことは多いですね。
――ありがとうございます。ではここで、ビルボードジャパンの書籍チャートをぜひご覧いただければと思います。今は8つのチャートを作っているんですが、“Book Hot 100”が、書籍の総合チャートです。ほかにも、ジャンルごとのチャート(Bungei、Manga、Economy、Culture)と、年代別でShowa、Heisei、Reiwaの3つ、また急上昇チャート“Hot Shot Books”を毎週発表しています。このなかで、何かピンときたチャートはありますか?
水野:年代別チャートが「本」っていうものを象徴しているなと思います。年代別にしているのに、たとえば『思考の整理学』(著:外山滋比古)とか、ずっとずっと売上ランキングにいますよね。“懐メロ”とかじゃなくて、やっぱり生き生きしているというか、“名著”と呼ばれているものってずっと生き生きしていて、また新しい読者に出会っているんだなということを感じられて。年代別チャートも”年代別”とは言いながら、常に最新だな、というのをすごく感じましたね。あと『思考の整理学』とか、何年かに1度必ず話題に上がりません?
――上がります! 特に4月とか、新学期シーズンに大学生協の書店で“おすすめ書籍”みたいな感じでよく出てくるイメージがあります。
水野:昔の名著って、その時の社会情勢を表しているような気もしていて。たとえばジョージ・オーウェルの『1984年』もスタンダードだけど、政治情勢がちょっと不安定になると「呼ばれる」というか……(世の中が)「ああなっちゃうんじゃないか」とかで話題になると、すぐあの本がSNS上とかでみんなの話題に上がってくる。だから、すごい本ってそういうものなのかなって。日本でも、その時々の社会情勢に合わせて需要が高まる、みたいな本ってありますよね。もしかしたら見るだけで「今の世の中って結構不安定なんだよ」とか、「こういうところに今の人は不安を感じているんだな」とかが、もしかしたらわかるかもしれないですね。
――確かに! 新型コロナウイルスの感染が広がっていたときも、同じような状況を描いたアルベール・カミュ『ペスト』がすごく話題になった記憶があります。実はこの総合書籍チャートには、指標のひとつにSNSを加えています。noteと「ブクログ」で書かれている書評や感想文をデータ化して、そこで話題になっている作品にはさらにポイントが加点されるシステムをとっているので、さっき水野さんがおっしゃった“社会情勢”の部分も、よりリアルに反映できるのかなと私たちも期待しています。
では最後に、これまで本の話と水野さんにとっての“表現”のお話とをたくさんお伺いしましたが、これから水野さんが挑戦してみたい言葉の表現、創作は何かありますか?
水野:仕事に、自分の身柄が拘束されていまして(笑)。なかなか難しいんですけど、小説は書いていきたいですね。あと最近興味があるのは、語り……落語や講談のような“話芸”がいろんなヒントを与えてくれるなと思っていて。古典の物語があって、それが語り手によって全然違う表現になるという部分は、歌とすごくリンクするなと思っているんです。“語り”というものをモチーフに、何かものを書けないかなとちょっと思ったりしています。 小説も、単純に口語体とか文語体っていう話ではなくて、「人が語る」という行為そのものを、うまく小説に落とし込めないかな?とか……そういうことをよく考えますね。考えるけど、全然たどり着けないです。
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