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<コラム>プエルトリコより愛を込めて――バッド・バニーの世界的成功を支える地元に根差した戦略

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Bad Bunny performs onstage during Night One of Bad Bunny: "No Me Quiero Ir De Aqui" Residencia En El Choli at Coliseo de Puerto Rico José Miguel Agrelot on July 11, 2025 in San Juan, Puerto Rico. Photo: Kevin Mazur / Getty Images

Text: Leila Cobo / Billboard.com掲載

 チャートを席巻したアルバムとハイ・コンセプトなレジデンシーで、バッド・バニーは2025年に自身を超えた。それもすべての場面で自身の故郷プエルトリコを最優先にしたことによってだ。

 バッド・バニーの壮大な2025年は、2年以上前に、故郷プエルトリコを遠く離れた地で「Baile Inolvidable」という曲に使われることになる一文を書き留めた時に始まった。それはロサンゼルスだったかもしれないし、ニューヨークだったかもしれない。

 始まりはプロデューサーの一人が送ってきたシンセのリフだった。「そのとき歌詞が浮かんだんだ——“君と一緒に歳をとると思ってた”——それをサルサにしたいと思った」と彼は今日語る。「最初の一行を書いてからアルバム作りが始まった。“Baile Inolvidable”は最初の曲のひとつだったんだ。」

 彼はそのアイデアを寝かせ、ツアーに出て2本の映画の撮影に参加した。2024年8月頃に改めて「Baile Inolvidable」に取り掛かったとき、曲はすでに頭の中で完全に形になっており、必要なのは命を吹き込む誰かだった。そこで出会ったのがビッグ・ジェイ(本名:ジェイ・アンソニー・ヌニェス)だ。当時22歳のプロデューサー兼パーカッショニストで、メジャー作品の制作経験はなく、趣味でトラップ・ナンバーのサルサ・バージョンを作っていた。インスタグラムにアップしたそのうちの一つが、バッド・バニーの耳に留まった。数か月にわたりバッド・バニーのチームとのやり取りを経て、2人はついにプエルトリコで対面した。

 「彼は全体の構想を持っていた。管楽器、歌声、ホーン。彼にとってすべてが明確だった」とビッグ・ジェイは振り返る。「僕らは1時間ぶっ通しで休憩もなく、僕のPC上で頭から終わりまで曲を仕上げたんだ。彼はこう言った。“今日、8月28日に、俺はビッグ・ジェイとグローバル・ヒットを作った”って。」

 「Baile Inolvidable」の制作過程は、同曲を収録した全米No.1アルバム『DeBí TiRAR MáS FOToS』の成り立ちを垣間見せる。同作はプエルトリコを背骨に据え、伝統的なプレーナから綿密なサルサ、現代的なレゲトンまでを融合させている。

 クリエイティブ面で落ち着くことがないバッド・バニーにとっては新たな挑戦ではあるが、比較的馴染み深いものでもあった。「これは普通のことだった。島で毎日耳にする音楽だから」とマネージャーのノア・アサッドは語る。「PR(プエルトリコ)では重要な文化的瞬間になると分かっていた。でも世界にとっても同じように特別になるなんて思ってもみなかった。」

 『DeBí TiRAR MáS FOToS』は米ビルボード・アルバム・チャート“Billboard 200”で通算4週首位を記録し、すでにラテン・アルバム・チャート“Top Latin Albums”の歴代最長首位記録トップ10入りしている(バッド・バニーは、同チャート最長首位記録70週となる『YHLQMDLG』を含む4作がトップ10入りしている)。9月末時点でアルバムの表題曲であり代表曲の「DtMF」はラテン・ソング・チャート“Hot Latin Songs”で31週1位を記録。これは彼にとって最長記録であり、この10年で最長、歴代でもルイス・フォンシ&ダディー・ヤンキー「Despacito」、エンリケ・イグレシアス「Bailando」に次ぐ3番目の長さだ。

 だが今年1月のアルバム・リリース以前から、バッド・バニーと彼のチームは『DeBí TiRAR MáS FOToS』をプエルトリコのためのツールにしようと決めていた。「自分たちの行動はすべて、まず島のためなんだ」とアサッドは言う。「汚職のない島になってほしい。より良い教育が提供できる島になってほしい。長期的に素晴らしい場所であってほしい。その目的はずっとあった。ただ、どう使うか分からなかったんだ。」

 その音楽的プロセスはプエルトリコで始まり、プエルトリコで終わった。アルバムの約95%は生楽器による演奏で構成されており、バッド・バニーは音楽家に溢れるこの島から何百人ものベテランを選ぶことができた。しかし彼がスポットライトを当てたのは、若手男性4人組プレーナ・グループのロス・プレネロス・デ・ラ・クレスタ、インディーズ・カルテットChuwi、そしてアルバムのために結成された若者中心のバンド、ロス・ソブリノスといった若いグループだった。

 プロデューサーにはビッグ・ジェイのような新鋭を迎えた一方、プエルトリコの音楽ジャンルに挑むことを熱望していたニューヨリカンのMAGのような長年のコラボレーターも起用した。実際、Hot Latin Songs首位をマークした『DeBí TiRAR MáS FOToS』収録の「NUEVAYoL」(エル・グラン・コンボ・デ・プエルトリコの「Un Verano en Nueva York」をサンプリング)には制作が始まる2年前からすでに着手していた。

 「(バッド・バニーは)それをアルバムの1曲目にした。なぜなら、島を離れてニューヨークに渡ったプエルトリコ人についての曲だからだ」とMAGは言う。

 レコーディングが始まる前から、アサッドとバッド・バニーはプエルトリコでレジデンシーを開くことを語っていた。2023年7月、アサッドとプエルトリコのプロモーターのムーブ・コンサーツのパートナーであり、Rimasのツアー部門Rimas Nationの責任者アレハンドロ・パボンは、当時レジェンズ・グローバルの地域GMのホルヘ・ペレスと極秘ランチをした。彼の管轄にはプエルトリコ唯一の大規模レジデンシー会場、コリセオ・デ・プエルトリコ・ホセ・ミゲル・アグレロットがあった。「アルバムのコンセプトは知らなかったが、彼だと悟られないよう戦略的に日程を押さえる必要があった」と現ディスカバー・プエルトリコのCEOペレスは振り返る。

 「我々はそれをスーパーボウルというコードネームで呼んでいた」とパボンは言う。2024年8月、アサッドは「スーパーボウル計画を再開せよ」と指示を出した。まだ完成していないアルバムが非常にプエルトリコ色の強い作品になると分かっていたからだ。彼らはペレスに対し、夏の間3か月間を確保するよう求めた。ショーの合間に搬入や撤収を繰り返すのは不可能だったからだ。

 ただし、ありきたりなレジデンシー公演ではなく、プエルトリコ体験そのものにしたいと考えていた。チームは、デスティネーション型の体験を企画するライブネーション傘下の会社Vibeeと提携し、観光客向けにVIPパッケージを用意した。さらに1月、ツアー発表のわずか2週間前に「ベニートが最初の(9)公演はプエルトリコ人限定、これは交渉の余地なしだと言ったんだ」とパボンは明かしている。

 最安で35ドル、最高でも250ドルの上限を設けた、リーズナブルなチケットの価格設定も譲れない条件だった。パボンは、「赤字にはならなかったが、もちろんもっと大きな利益を得ることもできた。だが、それが目的ではなかった。これはプエルトリコへの贈り物だったんだ」と語る。

 バッド・バニーと彼のチームは、ベンダーからコロセオのフロアを埋め尽くす巨大な山に至るまで、ショーのすべてを地元で実現することを目指した。このレジデンシーのビジュアルの中核となる巨大な山は、秘密のハンガーで3か月かけて制作され、アリーナで再構築するのに10日を要した。さらに、バッド・バニーが、山の音響システムを一切見せたくないと希望したため作業は難航した。制作監督のロランド・ “ローリー” ・ガルバロサは、「音響システム全体を天井に設置する必要があった。これは、どのツアーでも誰もやったことがなかったことだ」と振り返る。

 パボンによると、30公演で合計46万枚のチケットが販売され、そのうち25万人以上がこの公演のために島を訪れたという。ペレスは、このレジデンシーによる経済効果を5億ドルと試算する声もあると述べている。

 締めくくりとなったのは【No Me Quiero Ir de Aqúi: Una Más】と題されたアンコールの31公演目で、プエルトリコ在住者限定で開催された。この公演は9月20日にアマゾン・ミュージックで生配信され、同プラットフォームで史上最も視聴された単独アーティストによるパフォーマンスとなった。さらにこの公演は、アマゾンとアーティストによる包括的なパートナーシップの出発点にもなり、経済開発、農業支援、STEM教育プログラムなど、地域発展に焦点を当てた取り組みがプエルトリコで展開されていく。

 「自分がプエルトリコ人であること、そしてそのためにこうした音楽を作っていることをはっきりさせたい」とバッド・バニーは語る。「このアルバムはプエルトリコに捧げたもので、そこでしか意味を持たないかもしれないことも歌っている。そして確かにプエルトリコで大きな反響を得たが、そこだけに留まらなかった。それが一番の驚きだった。」

 さらには9月下旬、彼は来年開催される【スーパーボウルLX】のハーフタイム・ショーのヘッドライナーに起用され、グローバル・アイコンとしての地位を決定的なものにした。当然のことながら、彼は自身にとって特別な意味を持つ島への敬意を込めて発表を行った。

 「自分のためというより、自分がタッチダウンを決められるように何ヤードも走ってきたすべての人々のために、この興奮を感じている。私の人々、文化、そして歴史のために」と彼は声明で述べた。「アブエラ(おばあちゃん)に伝えてくれ。俺たちがスーパーボウルのハーフタイム・ショーをやるんだと。」

この記事は、米ビルボードの2025年10月4日号に掲載されています。

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