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<インタビュー>3回目を迎える南野陽子の【To Love Again】「あの空気感、距離感もビルボードライブの良さ。本当にやめられません!」
80年代のトップ・アイドルとして君臨し、幅広いジャンルで才能を発揮する南野陽子。1985年に『恥ずかしすぎて』でレコードデビュー後、テレビドラマ『時をかける少女』や『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』の主演を務めて話題に。歌手としても『はいからさんが通る』や『吐息でネット』など、オリコンシングルチャートで9作が1位を記録し、最前線を走ってきた。近年はドラマや映画、舞台などの作品に出演し、受賞歴も多数。女優としても引く手あまたの存在だ。そんな彼女が、2021年からビルボードライブで開始したライブ・シリーズ【To Love Again】が、今年で3回目を迎える。(Interview & Text 岩本和子)
お酒を飲みながら楽しい時間を過ごして
――3年目を迎える【To Love Again】ですが、どういった経緯で始まったのでしょうか?
南野陽子:しばらくは女優業だけやってきたのですが、コロナ禍になって「ファンの人はどういうふうに過ごしているのかな」、「お家で鬱々としていないかな」とか、「何か歌いたいな」と思っていた時に、作曲家のお友達が「この曲を作ったんだけど、歌わない?」と声をかけてくれて。それから音楽に関することが一気に重なって。その当時、アレンジャーさんとか、普段は大御所のアーティストさんのバックで演奏されているようなミュージシャンの方もお家にいますということだったので、これは頼めるのではないかと感じでお願いしてみたら、「時間もあるしできますよ」ということで始まりました。
――最初からシリーズにしようとお考えだったのですか?
南野:当初は一遍こっきりのつもりでした。だけど、やると楽しいし、嬉しいので、じゃあもう1回と言って、去年の春にやって。でもまたもう1回という感じで、今年で3回目になって。ちょうど1年3ヶ月おきに開催しているので、シーズンも冬・春・夏とめぐりました。
――どういうところに楽しいと感じられますか?
南野:やっぱり生音です。もちろんCDなども良いですが、直に耳に入ってくる音は全く別物ですよね。生の楽器の音に感動しますし、ビルボードライブは特にお客様との距離感が近くて。お顔が見えない人がいないくらい、全席、お顔が見えるので、「ちょっと退屈してないかな?」とか、「楽しんでくれてる!」とか、「歌ってくれてる!」とか、プレートのお料理を食べていらっしゃる姿を見ながら「おいしそうだな」って思ったり…。そういう細かいところまで見える、その空気感、距離感はビルボードライブの良さだなって思っていて。だから本当にやめられません。
――これまでの活動の中で、ビルボードライブのような物理的に近い距離でコンサートなどされたことはありますか?
南野:あんまりなかったですね。キャンペーンとかしたこともそんなにはなかったし、コンサートはありましたけど、ホールとか会館のコンサートでしたから、またちょっと違う距離感ですよね。お芝居は小さい劇場もありますが、お芝居中はあんまりお客様の顔を見ないから、本当、あの距離感はビルボードライブだけです。
――ファンの方の顔が見えるってすごくいいですよね。
南野:はい、すごく元気をもらえますね。
――【To Love Again】の1回目と2回目では、何か違はありましたか?
南野:回数を重ねるごとに、出し惜しみせず、歌ったことがないような曲を歌ってみたいなとか、そういうふうな思いが芽生えました。と同時に、前回から1年3ヶ月も経つと、膝が痛いとか、いろんな不調もちょっとあるんですよね(笑)。でも、それもリアルな感じで。お客様もそういう悩みを抱えているような方が多いので、同窓会みたいな感じです。40代~60代の方が「かつて青春時代に一緒に過ごしていた人が、まだ変なことをしゃべっていて、歌っている」と、お酒を飲みながら楽しい時間を過ごしてくれるのではないかなと思います。
――【To Love Again】の選曲はどう決められるのでしょうか?
南野:選曲は自分の好きな曲のみで、みんなが知っている曲。ポピュラーのど真ん中というか、私の持ち歌や若い頃から歌っている曲が半分で、残りの半分は洋楽のカバーで、新たに訳詞をしたものも歌っています。【To Love Again】は映画『愛情物語』のテーマ曲のタイトルで、ショパンのノクターンをカーメン・キャバレロが弾いたバージョンなんです。私はその曲を何万回と、毎日多いと10回、少なくても1、2回は小さい時から聴いてきて、この曲で私が出来上がったといってもいいぐらいで。なので、たとえば「およげ!たいやきくん」のジャズ風アレンジとか、小さい時に聴いていた曲もあります。洋楽も「Fly Me to the Moon」とか、メリー・ホプキン、カーペンターズとか、コマーシャルとかで使われるような知った曲ばかりを歌います。
80年代のヒット曲を紡いだ「萩田メドレー」も用意
――【To Love Again】のサウンドプロデューサーは萩田光雄さんです。
南野:萩田さんには、私がアイドル時代に歌っていた楽曲の9割をアレンジしてもらっていました。私はいろんな方とお仕事で出会っていますが、リスペクトしている人は?と聞かれると真っ先に顔が浮かぶのが萩田さんです。もちろん作曲家の先生も、作詞家の先生も素晴らしいですが、日本のポップスってアレンジャーで決まるところもあると思うんですよね。
――そうなんですね。リリースされたものと、原曲とでは大きな違いがあるんですね。
南野:キラキラした印象のイントロとか、そういったパートもアレンジャーさんが作られます。たとえば「イントロクイズ」とか、最初の音を聴いただけで「あの曲!」ってわかるじゃないですか。あれは、アレンジャーの力なんです。萩田さんも3000、4000という曲をアレンジされていますし、もっとアレンジャーというお仕事が注目されたらと思います。
――【To Love Again】でも南野さんの持ち歌以外の萩田さんが手がけた楽曲を歌われるのでしょうか?
南野:はい、中森明菜さんとか、山口百恵さんとかの曲を7曲ぐらい入れた萩田メドレーを考えています。去年は『異邦人』とか、『恋におちて -Fall in love-』、『木綿のハンカチーフ』を歌いました。今年も、いろんな人の曲が、いい感じで入ってくると思います。
もう歌はやらないと思っていたけど…
――歌への向き合い方とか、歌そのものへの意識とか姿勢は、長い活動の中で何か変化はありますか?
南野:50歳になるまで、私はもう歌はやらない方がいいなと思っていて。これは仕方ないことなのですが、アイドルって「歌手」とも言われないし、「女優」とも言われない、一体何なんだろうというモヤモヤした感じがあったので、ちょっとお芝居だけに傾いた時期がありました。そのお芝居も300作以上やって、「そろそろ女優って言ってもいいのかな」と思っていたのですが、「『はいからさんが通る』、聴いていました!」とか、音楽のことで声をかけられることも多くて。だったら、女優さんの特色として持ち歌があることを持ち味にしていこうかなって。昔よりも声も出ていないし、上手には歌えないけど、でもみんなと楽しい時間は持てるんじゃないかなって。年を取るということは、いわゆる羞恥心がなくなるということ(笑)。間違えても、声が裏返っても、楽しかったらいいよって許してくれるファンの人たちなので(笑)。
――歌をまたやろうと思ったのは、なぜなんでしょうか?
南野:更年期とか体の不調が始まって、何のための人生なんだろうという感じもあって。それで、もっと自分を喜ばせてあげたいなとか、私も音楽は好きだから、上手にはできないけど、応援してくれている人と一緒に楽しめる時間を持ちたいなとか思うようになって。
――そういうふうに思われてから、生きやすさとかも変わってきましたか?
南野:変わりましたね。まず、タイミングを見計らわないようになりました。たとえば、震災とかあったときに、「皆さん、どうされているんだろう」と思ったら、とにかく行って話を聞いてみたり…。私はご飯が好きなのでお米作りに興味があったのですが、農家に知り合いもいないし、生半可に素人がお米作りをやっていいのかなとか思っていたのですが、今、舞鶴でお米作りをして3年目になりました。なんでも思ったら躊躇せず動いてみる。わからないことがあったら、「後で調べよう」じゃなくて、「今、聞いとこう」みたいな。そしたら、たくさんの方に助けてもらうことが増えました。反対に、誰かのためになるのであれば、私が代わりにやってあげることもできます。
京都府舞鶴市でのお米作りとカンボジアで広がるご縁
――お米作りをされているんですね。すごく興味深いです。
南野:京都の舞鶴市で、友達のお知り合いの方の使わない田んぼで作らせてもらっています。普段の管理はその土地の方がしてくれるのですが、田植えと、草刈りと、稲刈りと、その3回ぐらいはやっています。売るほどはできないのですが、自分が食べる分と、周りの人にちょっと配る分ぐらいは収穫できて。美味しいんです! 舞鶴のお米は美味しいんですよ。去年は早めに収穫をしちゃったのでちょっと小粒でしたが、その分、水分もたっぷり含まれてる感じで、すごく味しかったです。
――そうなんですね。いつかビルボードライブでも南野さんのお米を提供してください(笑)。
南野:置いてもらおうかな!お料理と一緒に、いいですよね(笑)。
――カンボジア親善大使の活動もされていまして、そのお話もお聞きしたいのですが、どんなきっかけで親善大使になられたのでしょうか?
南野:35年ぐらい前に『24時間テレビ』でカンボジアとかタイにレポートしに行ったのですが、その時に行った小学校とか病院、孤児院のことがずっと気になっていて。なので、テレビ番組とかで「会いたい人はいますか?」とか、「気になっているところはありますか?」と聞かれると、「カンボジア」と答えたりしていて、そこから繋がりがずっとありました。30年前に10代だった子たちが今、40代になって、お母さんになった子、ちょっとした市場をやっている子、国連で働いている子と、いろんな子がいるんですけど、そういう子たちと繋がりがあることを外務省の人が知ってくださって、大使の委嘱を受けました。海外支援のことばかりを考えてきたわけではないですが、離れた土地の人と何十年も繋がっていることってなかなかないから、これも本当にご縁だなと思います。これからも何か一緒にできたらいいなと思って活動を続けています。
――お米作りもそうですけど、ご縁があってこそですね。
南野:本当に巡り合いというか。カンボジアの子たちも、子供だった時に、外国から来た私を見て、「外国って楽しそうだな」って思ったんですって。孤児院にいて、お父さんもお母さんもいないし、衛生環境も一番悪い時代でした。そこで海外から来た私が日本のテレビ番組の中継をやっていて、そのやり取りを横で聞いているわけですよ。そのうちの一人が、その時、外国って楽しそうだなと思って、大人になって国連に入って。それから、フェイスブックで繋がって…。
――フェイスブックで再会されたんですね!
南野:そうそう。それから「私はハワイの税関に行きました」とか、「お父さん、お母さんができました」とか教えてもらって。そうやってまた繋がったからこそ、そこで終わりじゃなくて、「じゃあ、会いたいね」とか「税関にいるのね、じゃあ、そのレーンに並ぶね」みたいな感じとかで繋がっていったり。すでに孫がいる子もいるんですよ。そんな子たちの写真がずっと溜まっていくのも嬉しいです。
――いいですね。南野さんはご縁の先をさらに広げて行かれる感じですね。
南野:どうなんだろう…。でも昔からわりとコラボというか、テレビ局の垣根を越えて何かやったり、それをきっかけに、後々それぞれに局を辞めてみんなで会社を作った人もいましたね。舞鶴の田んぼも、「田んぼを貸してくれてありがとうございます」という感謝を込めて、『飛揚−Hiyoh−~再会の似合うまち舞鶴~』という曲を作ったんです。作曲は、お米作りの友の宗本康兵さんで、私は詞を書いて。なんと演奏は舞鶴海上自衛隊の皆さんがしてくださって!その曲が今、夕方6時になったら舞鶴市内の防災無線で流れるんですよ!
――それはめちゃくちゃ嬉しいですね。
南野:嬉しいです!昨日も田植えで行ってたんですけど、防災無線の前で「ちょっと録音させて!」って待ち構えていて。18時になって「ああ、かかってる!かかってる!」って、私の声の方がうるさかったです(笑)。小学生も歌ってくれて、すごくうれしかったです。