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<インタビュー>米津玄師 『ジョージア』新CMソング「毎日」に込めた、自分は自分でしかないという“開き直り”
Interview & Text:柴那典
米津玄師の新曲「毎日」にまつわるインタビューが実現した。
「毎日」は日本コカ・コーラ『ジョージア』のCMソングとして書き下ろされたナンバー。昨年4月にリリースされた「LADY」に続いてのタイアップとなる。跳ねるリズムのハイテンションな曲調が印象的な一曲だ。
〈毎日毎日毎日毎日 僕は僕なりに頑張ってきたのに〉という歌い出しから、キャッチーなメロディに乗せて〈鼻じろむ月曜 はみ出す火曜 熱出す水曜 絡まる木曜〉と、決して順調ではない日々を歌うこの曲。制作にあたってどんな思いがあったのかを訊いた。
同じテーマに違う曲を書くのは
難しいと思ったのは覚えていますね
――「毎日」は『ジョージア』の新しいCMソングですが、お話をいただいて書いた曲だったんでしょうか。
米津玄師:そうですね。昨年から続投させていただくことになって、それがきっかけで作り始めました。とはいえ「毎日って、けっこうドラマだ。」っていうキャッチコピーは去年と同じで。同じテーマに違う曲を書くのは難しいと思ったのは覚えていますね。
――同じく『ジョージア』のCMソングとして書き下ろされた「LADY」がリリースされたのが約1年前のことです。その後CMは長らくオンエアされてきましたが、あの曲は今米津さんの中でどういう位置づけになっていますか?
米津:それまで“朝の曲”を書くということをあまりやったことがなかったのは確かで、それは自分にとって挑戦のひとつでした。あとは身の回りのミュージシャンが「好きだ」と言ってくれることが多くて。ミュージシャン受けする曲なのかな、みたいな感じはありました。なんでなのかはわからないですけど、いろんな人に「いいね」という話をされて、嬉しかったです。
LADY / 米津玄師
――そうなんですね。
米津:関係あるかどうかわからないですけれど、この間、とある知人のミュージシャンと話をしたときに、凝り性の奴って、たとえばコード譜を書いたときにひとつのコードの名前が長くなればなるほど気持ちいい、セブンスとかナインスとかディミニッシュとかオーギュメントとか、そういうのがギュウギュウに詰まっているのが気持ちいいよね、という話になって。自分もそれはよくわかるんですけれど、その一方で、基本的にはポップスというか、わかりやすいものが好きだし、作りたいと思っている。ギュウギュウのコードばかり使って複雑怪奇化していくのも危ないなと常々思っているんです。そこと上手く戦っていかないといけないなという気持ちにさせてくれた曲かもしれないですね。
――世界各国でヒットしている日本の楽曲をランキング化した、ビルボードジャパンの各国別グローバルチャート“Japan Songs(国別チャート)”によると、「LADY」は特に韓国で人気が高いようです。米津さんの曲の中でもユニークな海外での広まり方をしているようですが、なにか特別なところはあったと思いますか。
米津:そうなんですね。自分では全く想像がつかないです。あのコード感に強度があるのかなとは思います。耐用年数が長いというか。でも、すぐには答えが出ないですね。
身も蓋もない現実をどう生きるのかというと
「でもやるんだよ」
――曲を書くにあたって、「LADY」とどう差別化するかは意識しましたか?
米津:そうですね。「LADY 2」のような曲は作りたくはないので。ただ、いろいろやっていても、基本的にほぼ同じ空気感の企画に対して曲を当てていくと、どうしてもそうなってしまう。「なんか違うな」と思って、書いては捨てて、書いては捨てて、みたいなことを何度も繰り返していたんです。その時は自分の仕事量的にも切羽詰まっている時で、そうしているうちに「何やってるんだろう……」と思いはじめて。自暴自棄というか、ひとりで家にこもって、デスクの前から一歩も動かずにうんうん唸っているだけの毎日。「毎日毎日何やってるんだろう、俺は結構頑張ってるつもりなんだけどな」と思ううちに、「これを曲にすればいいや」と思ったんです。
――なるほど。この曲の歌い出しには〈毎日毎日毎日毎日 僕は僕なりに頑張ってきたのに〉とありますが、このフレーズは米津さんの心の中にあった正直な叫びだった。
米津:そうですね。魂の叫びというか。そういうテンション感でした。
――「LADY」の時は倦怠感がキーワードとしてあったということを仰っていましたが、この曲はそれとは違う、高揚感あるアップリフティングなムードがあるように思います。そういう曲になったのはどういう由来なんでしょうか?
米津:自分も30代になって、いろいろ思うことや感じることも変わってきて。30歳になった節目のあたりで、人生ゲームの司会者みたいな人が降りてきて「あなたの30年間の人生はこんな感じでした、さあ引き続きどうぞ」って、いろんなパラメーターがパッと示されたような感じがあったんです。自分が今まで生きてきた人生を振り返れば、自分なりに頑張ってやってきた部分、それによって成功した部分もあれば、失敗した部分もある。大きく育った部分も全然育たなかった部分もある。それを見て、どうあがいても、どう頑張っても自分は自分でしかないという諦めがついた。よく言えば受け入れた、悪く言えば開き直った感じがあったんです。それによって浄化された部分もあったけれど、とはいえ、できなかったことができるようになるわけじゃないから、依然として目の前に困難があって。そうなってくると「落ち込んでる時間なんてないな」みたいな感じがどんどん大きくなってきて。
――なるほど。自分は自分でしかない。
米津:近年、そういうことに自覚的な人が増えたと思うんです。ちょっと前に「親ガチャ」って言葉が流行ったり、マイケル・サンデルも言っていましたけれど。そもそも生まれた環境とか、遺伝子とか、親の資本とか、そういうものによって、自分の適性や能力みたいなものがある程度決まってしまっている。そういうことに自覚的な人が増えたような気がするんですよ。でも「とはいえ、どうしようもなくない?」って思うんです。自分の才能、適正、性格みたいなものがあらゆる運によってある程度決まってしまっていて、何らかの生きづらさを抱えていたとしても、今さら取り返しがつかない。これからの社会を是正することはできたとしても、今生きている我々はどうしようもない。それは本当に由々しきことだと思うんですけど、だからどうすればいいのかと言われたら、身も蓋もない話だけど、少なくとも俺は、がむしゃらに頑張るしかない。がんばれるのも才能だったとしても、それでもがんばるしかない。勉学でもスポーツでも何でもいいですけど、毎日毎日手が痺れるまで反復する。サッカーだったらボールをずっと蹴ったり、勉学だったらペンを走らせたり。社交性がないなら社交の場に赴く。毎日毎日地味なことを反復する。たとえ意味がなかったとしても反復する。自分なりにがんばる。それを努力と呼ぶのであれば、そういう努力の上でしか自分の地獄を救うことはできない。ほんとうに身も蓋もない話ですけれど、その身も蓋もない現実をどう生きるのかというと「でもやるんだよ」っていう。
――ある種の開き直りみたいなものが、この曲のモチーフになっている。
米津:そうですね。毎日毎日同じようなことの繰り返しだけど「でもこれが俺の人生だ」って、開き直って言うしかない。破れかぶれの開き直り、破れかぶれの空元気。なんかそういう感じです。
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ブチ切れているのをカラッと出すことによってでしか
生まれないものがあると思う
――曲を作っていくにあたって、いちばん苦心したところとか、ここのフレーズが出てきたことで道が開けたと感じたところはありましたか?
米津:やっぱり最初の一行ですね。〈毎日毎日毎日毎日 僕は僕なりに頑張ってきたのに〉というところをヤケクソになって書いて。そっからは半ば自動書記みたいに、スルスル紐解かれていくようにできていった。勢いでゴリ押そうと思ったんですよ。そういう曲にしようって。 コードも基本的にワンループだし、変にこねくり回すんじゃなくて、勢いでテンポよくポンポン進んでいって帰ってくる感じですね。
――この曲には〈鼻じろむ月曜 はみ出す火曜 熱出す水曜 絡まる木曜〉という歌詞がありますよね。こういう風に曜日を挙げていく曲として、たとえばアヴィーチーの「Waiting For Love」とか他にもいくつかあると思うんです。でも、そういう曲ってたいてい月曜から木曜が憂鬱で、金曜日から週末に解放されるんですよ。
米津:たしかに。キュアーの「Friday I'm In Love」もそういう曲でしたよね。
――でもこの曲は〈あとの金土日言うまでもないほどに 以下同文〉なのがすごいなと思って。そういうある種のストイックさ、開き直り感、やけっぱち感みたいなものと、曲のアップリフティングな高揚感との組み合わせがすごく印象的でした。
米津:そこはブチ切れているところかもしれないですね。「さよーならまたいつか!」と共通している部分かもしれないですけど、ブチ切れているのをただブチ切れて何が楽しいんだっていうのもあるし、カラッと出すことによってでしか生まれないものがあると思うので。ただまあ、金曜になったら解放されるというのはたしかにそうですね。自分の人生も毎日毎日塞ぎ込んでいるだけじゃないし、休日にはパーっと酒を飲んだりして楽しい日もあるんですけど。でも結局それで何かが大きく変わるかというと、そういうわけでもない。抗いようのない自分というものがそこにはあるんで。やっぱり結局そことがっぷり組み合わなきゃいけないなという感じかもしれないです。
――2番の歌い出しの歌詞には〈ぢっと手を見る〉というフレーズがあります。これは石川啄木の短歌「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」(『一握の砂』)からの引用だと思います。「さよーならまたいつか!」でも種田山頭火の俳句「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」を引用した歌詞がありましたが、今回に関してはどんな意図があったんでしょうか。
米津:何も意図してませんが、2番の頭で引用するのがマイブームなのかもしれないですね。ただ、「さよーならまたいつか!」に比べると、毎日働いている、そういう繰り返しの生活を歌っている歌に「はたらけど はたらけど」からの引用というのは、飛躍がなくてちょっとそのまま過ぎるなとも思ったんですけれど。ただ、そういう愚直な感じはこの曲に似合ってるなと。
――そこに続く2番の〈意味がない?くだらない?それはもうダサい?〉とラップ的に畳み掛ける歌唱も曲の中でポイントになっていると思うんですが、ここにはどういう意図があったんでしょうか?
米津:自分ではあまりわからないですね。ただ、その時、その瞬間の自分の生き様というか、感情、感覚みたいなものをバーっと出したらこうなったので。本当に自動書記的に書いたんで、後になって気づくことが沢山あって。啄木の引用も「ぢっと」っていう音がいいな、みたいな感じでパッと出てきたんです。
毎日 / 米津玄師
――わかりました。ちなみに、「LADY」のインタビューの時にコーヒーがマイブームだという話をしていましたが、米津さんの最近のマイブームはありますか?
米津:マイブーム? やっぱりコーヒーですかね。依然としてコーヒーは素晴らしいですね。コーヒーが好きになってから世の中の見え方が変わったというか。たいした話じゃないですけど、街を歩いていてもやたらとコーヒーショップが目に止まるようになった気がします。
――コーヒーを飲むようになって、日常は変わりましたか。
米津:コーヒーを飲むということがひとつのルーティンとして日常に組み込まれているし、馬の鼻先にあるニンジンのようなもののひとつになっていると思います。曲を作るときは、本当に毎日デスクの前に座って、どうしようかな、こうしようかなって考えているので。上手くいかないときは、一回コーヒーを飲もう、コーヒーを飲んだらちょっと気持ちが晴れるかもしれないって。そういう感じですね。
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