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<インタビュー>牛来美佳、東日本大震災後の故郷を歌った「いつかまた浪江の空を」に秘めた願い
東日本大震災により故郷の福島県浪江町を離れ、群馬県太田市で避難生活を続けるシンガーソングライターの牛来美佳(ごらい・みか)。2015年3月11日に故郷への想いを綴った「いつかまた浪江の空を」を音楽家の山本加津彦ともに制作し、YouTube上にて発表。2022年3月11日には配信限定で発売した「いつかまた浪江の空を」がメジャー1stシングルとして2023年2月22日にリリースされた。震災から12年。ももいろクローバーZの佐々木彩夏がプロデュースする浪江女子発組合の1stアルバムでのカバーやドキュメンタリー映画「福島からのメッセージ」のEDテーマへの起用に加え、合唱曲として全国の中学高校にも広がりつつある名曲が生まれた背景と成り立ちを聞いた。(Interview & Text: 永堀アツオ / Photo: Yuma Totsuka)
作曲家・山本加津彦との出会い
―――まず、2015年から歌い続けてきた「いつかまた浪江の空を」がメジャー1stシングルとしてリリースされた心境から聞かせてください。
牛来美佳:まだ実感が湧いていないのが正直な感想です。私が避難先で毎年開催している復興支援ライブのスタッフや、足を運んでくれた皆さんもとても喜んでくさって…。私にとっては、新しくスタートしていくための大切な作品でもありますし、これまで応援してくださった方や同じような境遇を経験した当事者の人たちと一緒にリリースしたような気持ちもありますね。
「いつかまた浪江の空を」ミュージックビデオ
――今、このタイミングだったってことは牛来さんにとってはどんな意味を感じていますか。震災からは12年、曲ができてからは8年が経ってます。
牛来:昨年の3月11日には配信リリースされた時や、ももクロの佐々木さんがプロデュースしている浪江女子発組合のファーストアルバムにカバー曲として収録していただいた時もそうだったんですけど、とても感慨深いですね。発表してから7〜8年という時が経ってからそのような形になることは想像してなかったことですけど、私の中にはずっと受け継がれていくような曲であってほしいなという願いもあったので、歌で伝え続けていくことで、ちゃんと届くべきところに届いていく曲なんだなっていうことをすごく実感しました。
――歌詞には<想い歌に叫ぶけれど/どこに届くの>という不安も綴られています。
牛来:本当にそうですね。私達は震災後に強制的に着の身着のままで避難して…。2日3日で帰れると思ったのが、もう帰れないっていう長期避難になっていって。町自体は存在していて、でも何の片付けもできず、そのまま朽ち果てていく、本当にゴーストタウンのような情景が広がっていたんですね。なので、伝えるための曲を歌うって出発したときは……もちろん、歌詞の中にあるように、当たり前の日常が溢れることを願いながらも、勝手に背負っている使命感が強くて、孤独で、1人でなんとなくボソボソと歌っている感覚だったんです。でも、いろんなステージで歌わせていただく中で、「心うたれた」という声をいただいたり、同じ境遇の方々には「当時の故郷を思い出して涙する」という声を寄せていただいたり。当初はどこに届いてるんだろうって疑心暗鬼になったり、不安な思いもありました。それでも歌い続けていくうちに、少しずつ形になり、想いを共有出来る大切な出逢いにも支えられて、本当にゆっくり浸透していくように輪が広がっている実感を持てています。
――今、お話に出てきた“伝えたい想い”をお伺いしたいんですが、この曲が生まれた成り立ちからお聞きできますか。作曲家の山本加津彦さんとの共作になってますね。
牛来:はい。山本さんとは、実は震災前に遡って、2009年に浪江町で出会っているんですね。当時、私は浪江町の町おこしの一環として開催したミュージックフェスの実行委員会の一員でした。2009年のゲストが、当時山本さんがリーダーのAo-Nekoさんでした。私は実行委員会ながら、即席でバンドを組んで一般参加をしたんですけど、たまたまその時期、福井舞(現在はふくい舞として活動)さんのデビュー曲「アイのうた」を知って。
――ドラマ『恋空』(2008年)の主題歌で、山本さんが作詞作曲を手掛けてましたね。
牛来:私が福井さんを知ったのはファーストアルバム『MY SONG FOR YOU』(2009年3月)が出たあとだったんですけど、早速買って聞いてみたら、どの曲をとっても、そのときの私の心境にドンピシャにハマったんです。「アイのうた」も恋愛ソングというより、もう少し深い愛を描いてるって感じて、すっと心に響いたんですね。だから、福井舞さんの曲だけでライブをしました。夜のメインステージで、Ao-Nekoのボーカルの方が、「ピアノを弾いてるのがリーダーで、CHEMISTRYさんやJUJUさん、いろんな方に曲を書いています。あとは、福井舞さんのデビュー曲『アイのうた』を手掛けていて……」って聞いた瞬間に、私、すごい号泣したんですよ。
――福井舞さんと山本さんが牛来さんの中ではまだ繋がってなかったんですね。
牛来:そうなんです。ちょっとしたきっかけで福井舞さんを知って、調べたらアルバムが出てたから聞いて、いい曲だなと思って、即興で組んだバンドで歌って。その年に呼んだゲストのリーダーが舞さんに楽曲提供をしていた…。そのことに感動して、めちゃめちゃ泣いてしまって。打ち上げでその話をしたら、山本さんには「え? 全曲!? そんなの日本中探してもどこにもおらんやろ」って言われて(笑)。その後に、「ダウンロード何百万件突破と言われても、自分が作って送り出した後は、実感することがなくて、実際にそれがどういうふうに聞かれているかわからない。でも、こうやって自分が呼ばれていたイベントで、僕の曲を歌ってくれている人がいるのがすごく嬉しい」って言ってくださって。帰り際に連絡先だけ交換したんですね。別にその後、連絡を取り合うことはなかったんですけれども、震災の後で、安否確認の連絡をくださって、励ましていただきました。そこから何かあったわけでもなく、あちこち転々と避難した後に、震災の年の5月末に今の群馬県太田市にたどり着きました。
――まだ歌を始めてないですよね。その避難先で感じたこというのは?
牛来:私たちの町は今は空っぽで、家が崩れたり、建物が斜めに傾いたり、津波の状態もそのままで、救えた命もそのままにして残して出なきゃいけなかった。でも、窓から見えるのは安全で普通の日常風景が広がっていて。そのギャップに心が追いついていかない部分があって。今、思えば、本当に勝手な使命感ですけど、とにかく伝えなきゃっていう気持ちが沸々と込み上げてきて。震災直後に、10代のときに出会ったライブハウスの店長が安否確認をした後にまた連絡をくれて、「こんなときだからこそ音楽やらないか」っていう言葉をくれたんですね。「福島は今、こんな状態で、音楽シーンどうしようもできないけれども、美佳が10代のときに“ワンコインのオリジナルCDを作って歌い歩きたい”って言ってた夢もそのままだったしな」って。群馬に来た後にその話を思い出して、なぜかパチンとハマるものがあって。時が少し経った後に、そのライブハウスの店長に電話して、ぜひ協力してほしいってお願いして、ミニアルバムを制作して。
――それが、2012年3月20日にリリースした4曲入りのミニアルバム『浪江町で生まれ育った。』ですね。
牛来:そうですね。歌で伝えるって決意して、走り始めたものの、なかなか自分の表現だけでは伝わりきらない部分も感じてました。幼い頃から歌手に憧れていたにしても、突発的に始まったことには変わりがない。伝えたい思いはあるのに、技術が伴ってなくて、もうむき出しの状態で伝えたいことを並べただけだったんですね。自分の表現力のなさに悩んでるときに、ふと山本さんを思い出して。震災前と震災後の写真を現像して、分厚いアルバムにまとめたものにお手紙を添えて、山本さんに送って。そのお手紙の最後に、「浪江町を思って曲を作ってほしいんです」って書いたら、「ぜひ、僕でよければ作りましょう」っていうお返事をくださって。浪江町は晴天に恵まれると本当にこれ以上のない、青々しい空が広がっているんですけど、山本さんも「浪江の空がすごく印象に残ってる」というお話をしてくれて。また浪江の空の下でたくさんの人の当たり前の日常が潤うように、またみんなが会えるように、帰ってくるようにっていう願いや祈りを込めたようなイメージで作っていきましょうっていう話になって。少し先の未来を描くようなイメージで作り始めたっていうのがきっかけですね。
- 「歌い継がれていくような曲であってほしい」
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―――繰り返しになりますが、牛来さんがこの曲を通して伝えたかったことというのは?
牛来:当初は、そのままで取り残されている町の現状と、みんなが知らず知らずにあちこちに散らばっていく状態を伝えなきゃと強く感じていました。とにかく強制的に人生を覆されるっていうことは、屈辱とか悔しいとか苦しいとか、そんな単純な言葉じゃ表せない気持ちなんですよね。とりあえず今ある現状を伝えるために叫びたいっていう思いがあって動きだして。
「いつかまた浪江の空を2020'」ミュージックビデオ
――震災からも時が経っていきますが、歌い続けることで伝えたい思いに何か変化はありましたか。
牛来:こうやって活動を続けていく中で大切な方とたくさん出会わせていただいて。だからこそ、今もなお歌い続けていけてるんですけれども、「何を伝えたいんだろう?」っていう軸は変わってないと思います。大切な故郷に想いを馳せて歌ってますけど、私達の故郷はもう二度と同じ形では戻らない。それに、あれだけの究極のことが起こると、どんなときも生きていかなきゃいけないんですよね。悔しいとか苦しいとか、叫んでも戻ってこないっていう部分では、これ以上にない強さやたくましさが一気に思いとして降りかかってきたんじゃないかなって思うんです。自分の身内や親戚では津波で亡くなった人はいないんですけども、強制的な避難によって、救えた命を残して去らなきゃいけなかったことには変わりはなくて。しかも自分は、そこで生かされてるというか、生きてる。じゃあ、あなたは何をするの? っていう自分への問いかけもあったんですね。同じ街に住んでいて、知り合いでもない、名前もわからない人たちが、あの3月の冷たい水につかって、救助が来るって信じて待っていたかもしれない。地元の人と声を掛け合って、救助くるまで頑張るぞって言ってたのが1人になっちゃったことを想像したときに、もう何でもできるって思ったんです。そこで、とにかく伝えなきゃっていう気持ちになった時に、10代で出会ったライブハウスの店長の言葉とか、山本さんとの出会いとか、いろんなことが重なって、音楽で伝えるっていうことを決断して歩んできたと思いますね。
―――そして、山本さんと制作した「いつかまた浪江の空を」には1番のサビから子供たちの合唱が入ってます。お一人ではなく、子供たちと一緒に歌おうと思ったのはどうしてでした。
牛来:2015年の3月11日にYouTubeで曲を発表したんですけど、同年の1月下旬にレコーディングしてるんですね。レコーディングの終盤に差し掛かってきた頃に、子供の声が聞こえてきて。山本さんにちらっと話してみたら、「僕も子供の声が入ってるイメージが湧いていたんだよね」っておっしゃられて。群馬で出会った子供たちや、山本さんのお知り合いのどこかの子供の合唱団でもよかったんですけど、私は一番最初は浪江の子供たちと歌いたいっていう思いがあって。そこから浪江町に問い合わせて、協力してもらって。避難先の仮校舎に通っていたたった21名の子供たちのコーラスを入れてもらうことになりました。
―――でも、時間がないですよね。1月下旬にレコーディングしていて、3月11日にYouTubeで発表しようって決めていて。1か月しかないです。
牛来:とにかく時間が短すぎるから、山本さんとは<ルルルル>っていうハミングぐらいにしようねっていう話をしていたんですけど、先生が音楽の時間はもちろん、朝と帰りの送迎車の中でも常に流してくれていたみたいで。実際にレコーディングにお伺いして、最初にお願いしていたハミングのパートを録って、「これでOKです。短い中でありがとうございました」って言ったら、最後に、音楽の先生が「実は毎日聞かせていたので、全部歌えるんですよ」っておっしゃって。せっかく覚えてくれたんだったら、音源に収録するかどうかは別にして、1回、子供たちだけで歌ってもらおうってことになって。そしたら、最初から最後まで、完璧に歌ってくれたんです。なので、トラックダウンの時に、山本さんが「当初の予定より登場率高めでいこう」って判断してくれて、子供たちの出番が増えたっていう裏話がありました。
―――仮校舎でのレコーディングの模様が去年の配信リリースに合わせて公開されました。今、改めて見てご自身で感じたことなどはありますか。
牛来:本当は2015年に発表するときに公開するはずだったんですけれども。発表する前夜、2015年3月10日の9時ぐらいに教頭先生から「ちょっとストップしてくれ」という電話が来まして。ある親御さんが不特定多数の人がいつでも見られることに踏みとどまる思いがあったそうなんですね。それって、もちろん子供の姿が映ってるということもありますけど、やっぱみんながそれだけ傷ついてるってことなんですよね。それによって親御さんも思い出したくないことも思い出してしまうかもしれない。みんな心の状況とか、本当に目に見えない部分でなかなか踏ん切りがつかないんですよ。震災からまだ4年後くらいでしたし、なかなか一歩を踏み出すっていうのができない状況だったので、私達も配慮しなきゃいけないと思い、音源だけを予定通りに発表して、映像は出さないっていうことでいたんです。でも、7年という月日を経て。やっと公開できることになって。やっぱり大人よりも子供の成長をすごく感じますよね。当時1年生だった7歳の子はもう14歳で中学2年生になってますし、当時6年生だった子はもう20歳に近い年齢になってる。だから、子供の成長が時の流れを感じさせるっていう部分もありましたし、私の中ではあれが本当にオリジナルなので、子供たちも含めて、本当にそのままを公開できて、とても感無量な部分がありましたね。
いつかまた浪江の空を2022' 牛来美佳/浪江町のこどもたち
―――今は合唱曲としても歌われてます。
牛来:率直に嬉しいっていう気持ちですね。山本さんとも合唱曲として広めたりしたいねとも話していて。昨年の配信リリースをきっかけに、合唱譜を作っていただいて、どなたでも手軽に無料でダウンロードして歌っていただけるようにっていう形で公開しました。本当にたくさんの方に歌っていただきたいですし、歌い継がれていくような曲であってほしいと思っています。プロアマ問わず、みなさんが手軽にカバーして、歌ってみたっていうぐらいの気持ちで一緒に歌ってくれたらすごく嬉しいですし、いろいろな形で広がっていってほしいですね。あとは、やっぱり散り散りになった当事者というか、同じ境遇にあった方っていうのは、おそらくもうそれぞれの地で基盤ができて、そこで当たり前の生活をしていると思うんです。私もそうですけど、故郷に対する思いがどんどん表に吐き出せなくなっていくんですね。話したところで、共有できるっていうよりかは、偏見を持たれるかもしれないっていうものもあります。どこか心の奥にしまい込んでいるものがきっとあると思ってるんです。なので、「いつかまた浪江の空を」を通して、あのときの私達の故郷を思い出したり、隠してる気持ち想いを乗せてもらえるような曲でもありたい。そして、本当に届けるための歌だと思っているので、これからもしっかり、と届けるべきところに届けていくような歌い手でありたいなと思いますね。
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いつかまた浪江の空を
2023/02/22 RELEASE
KICM-2126 ¥ 1,500(税込)
Disc01
- 01.いつかまた浪江の空を
- 02.菜の花のきみへ
- 03.幸せのカタチ~I think this is Love~
- 04.いつかまた浪江の空を (インストゥルメンタル)
- 05.菜の花のきみへ(オリジナルカラオケ)
- 06.幸せのカタチ~I think this is Love~ (オリジナルカラオケ)
- 07.いつかまた浪江の空を (合唱用カラオケ)
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