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<インタビュー>橋本裕太 シンガーとして、人間として“自分で自分を頼れる”ようになった理由
Interview & Text:岡本貴之
Photo:Yuma Totsuka
仙台出身のシンガー、橋本裕太が最新シングル『愛を知っている』を3月15日にCDリリースした。SNS上でのオルゴールカバー動画をきっかけに2017年に歌手デビュー、2018年にはAbemaTVの恋愛リアリティ番組『恋愛ドラマな恋がしたい』に”はっしー“の名でレギュラー出演するなど活躍してきた橋本だが、2019年9月からは中国・上海を拠点として活動を続けている。「愛を知っている」は中国のアニメ『魔道祖師 完結編』日本語吹替版のエンディング・テーマに起用されており、これまで橋本を知らなかった音楽ファン、アニメファンにも存在を知らしめることとなった。そこで今回、日本に滞在中の橋本に、楽曲のことのみならず自身のこれまでの歩み、現在の活動について話を訊いた。是非、”メルティーボイス“と称される甘い歌声を聴きつつ読んでみてほしい。
アニメへの書き下ろし曲として
――「愛を知っている」は、アニメ『魔道祖師 完結編』日本吹替版のエンディング・テーマになっていますが、曲の反響を目にすることも多いのではないですか?
橋本裕太:はい、Twitterが中心なんですけど、『魔道祖師』ファン、アニメファンの方から 「あ、ここの歌詞ってこういうこと言ってるんだ」みたいなちょっとした歌詞の考察とかもあったりして、ここまで自分の楽曲を細かく、1文字1文字見てもらえることはすごく嬉しいことだなと思います。たぶん今まで僕のことを知らなかった方がほとんどなので、そういう方に聴いていただけているのは嬉しいです。
――歌詞はご自身で書いていらっしゃいますが、事前に作品の映像を見てイメージを膨らませて書いたんですか。
橋本:このアニメは今回が完結編なので、 以前の作品を見ながら物語や世界観に寄り添って書かせていただきました。
――なるほど、では完結編に至るまでの物語も踏まえて書かれているわけですね。
橋本:はい、そうですね。そこを聴く人が読み取ってくれるっていうのは、書き手としては幸せなことで、ありがたいです。放送前に、予告の動画に少しだけサビの部分が流れたんですけど、 その時点でもうすでに何人かの方が「あ、ちょっといいんじゃない」って言ってくださったりしていたんです。自分でも驚くぐらい反響があってとても嬉しかったですね。
――作品の世界観に寄り添いつつ、ご自分の中で表現したかったのはどんなことでしたか。
橋本:まず作品自体がすごく綺麗な作品だなって思っていたし、中国と日本の歴史はちょっと似てる部分もとあると思うんです。言葉の綺麗さだったりとか、音の使い方だったりとか。そういうところにすごくこだわって作らせていただきました。綺麗な言葉遣いももちろんなんですけど、ちょっと古風なものも読み取れるような言い回しにしてみたりして。たとえば、〈月夜に響いた詩〉という歌詞でも、普通なら〈歌〉と書くところを〈詩〉にするだとか、そういう綺麗な言葉遣いは心がけました。
――橋本さんは2019年9月から中国・上海を拠点に活動されていらっしゃいますが、帰国は久しぶりですか?
橋本:昨年の頭にも一時期帰ってきていて、その後もう1回戻ってまた年末に帰ってきてって感じなので、 そんなに久しぶりというわけではないですね。
――コロナのこともあって、これまでは行き来するのは難しかったですよね。
橋本:日本と上海は2時間で行けちゃうので、当時の想定では行ったり来たりしながら活動していくつもりだったんですけど、すぐにコロナ禍になってしまって。今は1年に1回ぐらいのペースで帰国する感じなので想定通りではなかったですけど、そのぶん向こうにいる時間もより長くて密なものになったし、自分の語学能力や文化面での勉強という意味では、よかった部分もあるのかなと思っています。
中国を拠点に選んだ理由
――いろんなところで訊かれていると思うんですけど、中国に渡ったきっかけを改めて訊かせてください。なぜ欧米じゃなくて、アジア、中国だったのでしょう?
橋本:2019年の初めに、中国で活動されている動画クリエイターの方から中国語でエンディング・テーマ曲を歌ってほしいというお話をいただいて、元からあった自分の「ふわふわ」という日本語曲をリメイクした中国語の曲を歌わせていただいたんですけど、歌ってみたらとても難しくて。今まで自分は海外と全然繋がりがなくて、ずっと日本で閉じこもってやっていたタイプだったので、外国語で歌うことがほんとに難しかったんです。しかも英語だったらまだ多少触れたことがあるけど、中国語は日本語にない発音がたくさんあったりして、すごく苦戦したんです。そこで必死に練習しているうちに、ちょっとずつ楽しくなっていって。「この言語を覚えたら、活動の幅や歌の幅も広がるんじゃないかな?」と思って、そこから語学を真剣に学ぼうということで、2019年の秋に留学に行ったのが始まりです。
――きっかけはあったにせよ、そうやって未知の世界に飛び込むのって、勇気がいることですよね。なぜ決断できたんですか?
橋本:最初はやっぱり怖かったんですけど、僕は覚悟を決める前に行くことを決めちゃうんです。悩んでたらいつまでも行動できないから、もう行くことだけ最初に決めて、その後の時間でなんとか自分の気持ちを調整していく感じでした。
――“見る前に飛ぶ”感じですね。それまでにもそういうことはあったんですか?
橋本:上京した時も、わりとそうかもしれないです。そのときも、「もう行くしかない」って上京することを決めて、それまでに気持ちの折り合いをつけていくって感じでした。あと小さい話で言うとアルバイトとかもそうです。僕はもともとコミュニケーションが苦手で、人前で接客したりとかも嫌だなって思っていたんですけど、人と話す力の向上のためにも接客業のアルバイトをしようと思って。そのときも、とりあえず考える前に面接に行ったんです。それで受かってしまったら、もう行くしかないじゃないですか(笑)。そういう状況を作ったりはしていましたね。
――自分で自分を追い込んでいくんですね(笑)。
橋本:まあもちろん、好きで興味のある仕事ではあったんですけど。何かを決めるときは、わりとそうするかもしれないです。
――そういう姿勢って、誰かの影響からそうなったんですか?
橋本:周りの友達を反面教師にしたんです。僕は音楽の専門学校に通ってたんですけど、学校主催のオーディションが何回かあったんですね。音楽で成功することを目指してるんだからチャンスを掴めばいいのに、みんな「俺はまだその段階じゃないから」「もっと練習を積んでからオーディションを受ける。」と言って、結局卒業まで受けないんですよ。それを見て、すごくもったいないなって。そこで、「自分は何かあったらとりあえずやってみよう」と思うようになった感じです。考え方の基本的な部分はそこかもしれないですね。
――そうやって行動してきた結果今に至るわけですから、それは大正解ですよね。
橋本:そうですね。15歳のときに仙台で初めて歌のオーディションを受けたんですけど、その時もそれに近かったかもしれないです。
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音楽を始めたきっかけ
――そもそも、音楽を好きになって始めたきっかけはどんなことなんですか。
橋本:中学校2年生の時に楽器をやってみたいなと思ったのがきっかけです。ギターを弾ける叔父がいて、弾き語りとかを教えてもらううちに、どちらかというと歌が好きになっていってしまって。歌を仕事にできたら将来楽しいだろうなっていうところから、音楽の道に進むことを決めました。
――そこから、文化祭とかで歌ったりしていたんですか?
橋本:いや、当時の僕は目立ちたがり屋なのに、恥ずかしがり屋で(笑)。毎回文化祭とかで歌をやりたかったんですけど、緊張してできなかったんですよね。なので、初めて人前で歌ったのが先ほどお話した15歳で受けたオーディションの時でした。
――さっきの反面教師的な話だと、「まず人前で歌ってみてからオーディションを受けよう」となりますよね。
橋本:僕は「とりあえず行ってみよう」みたいな感じで(笑)。でも自信は全くなかったんです。それこそ、親とかには音痴って言われてきたので、全然受かるなんて思わないし、とりあえず力試しぐらいの気持ちでした。 結果としては、仙台予選を一応通過して全国には行ったんですけど、そこで最下位になって初めて悔しい思いをしたんです。そこから「歌に力を入れよう」って、自分のマインドも変わったし、それがきっかけでレーベルの育成さんとも出会えて、いろんなことが開けていった感じですね。
――その後、音楽専門学校に進んだんですね。
橋本:高校を卒業してから専門学校へ進学しました。当時、僕は音楽面での基盤が全くないなと自分で自覚していたので、 理論的なことも学べるような学校に行きたいなって思ったんです。
――曲を聴かせていただくと、すごく綺麗な歌声で正確なピッチを持っている印象でした。そういうトレーニングもしてきたわけですか。
橋本:ありがとうございます。そういうトレーニングもあったんですけど、僕はあんまり自分のピッチに自信を持っているほうでもなくて(笑)。思いが伝わればという気持ちで、今はやってます。でもそう言っていただけてありがたいです。
――参考にしたり、憧れたりしたアーティストはいるんですか。
橋本:小学校ぐらいの時に、Mr.Childrenさんの「Sign」を聴いて、気持ちを伝える歌い方に小学生ながら感動して、かっこいいなと思ったのは今でも覚えています。それからいろいろとライブにも行きました。バンドの方も、アイドルの方もライブにも行きましたし、 結構幅広く行っているかもしれないです。
――ちなみに、バンドをやろうと思ったことはないんですか?
橋本:ああ~、なるほど(笑)。専門学校では僕はボーカル科だったんですけど、他の楽器の科の方と一緒にやるバンドアンサンブルっていう授業があったんです。そこで思ったのは、「僕はバンドじゃないな」って。(自分は)声がそもそもそんなに太かったり強かったりするタイプじゃないので、演奏に負けちゃうっていうのもありますし、バンドのサウンドにはない、もうちょっと繊細なところを表現したいなと思ったんです。なので、どちらかというとピアノ一本とかのほうが好みですね。
――それもあって、ご自分で作詞、作曲もやるようになっていったわけですか。
橋本:そうです。作詞はずっと好きで、デビュー前とか学生の頃から書いたりしていました。作曲は専門学校で学んだちょっとしたコードだったりとか、叔父に教えてもらったギターだったりとかで簡単に作る程度だったんですけど、4thシングル『ボクラセダイ』をきっかけに、ちょっとずつ書かせていただけるようになって、そこから本格的にやるようになりました。
中国へ渡って気づいたこと
――中国に渡ってから、最初はどんなところから活動を始めたんですか。
橋本:いちばん最初は留学として語学を学んで、途中でコロナ禍になってしまったので1回戻ってきて。その後中国の番組に出演するために、もう一度中国に戻ったんです。
――そこから徐々に本格的に音楽活動に進んでいったんですね。語学を学びつつ、今度は中国語で歌わないといけないわけじゃないですか? 日本語と中国語の歌い方の違いとかって、相当苦労しそうな気がします。
橋本:響きの位置がそもそも違うのかなと思います。中国語の発音にもよるんですけど、(喉の)奥の方で鳴らさなきゃいけない音だったり、あんまり鼻にかけちゃいけない音だったりとかがあって、すごい細かいというか、日本語とはそもそも全然作りが違うものなんだなとは感じました。ただ、実は喋るよりも歌う方が発音という意味では簡単なんですよ。喋るとき、中国語は「四声」といって発音がいろいろあるんですけど、歌だったらそれを気にせずにメロディに乗せられるんです。複雑さで言うと歌のほうがそれほどじゃないかなっていうのはあったので、最初に語学を勉強していてよかったなと思いました。
――そういう難しいことがあっても、ご自分の中で乗り越えてこられたのはどうしてなんでしょうか?
橋本:それこそ、やること全てが初めてのことだったので、全部新鮮な景色というか、いい意味でずっとドキドキできていたのがこの2年、3年間ぐらいでした。「うわ、もうダメだ帰りたい」っていうよりは、良い緊張感で楽しくできてたなとは思います。
――本当に好奇心旺盛というか、刺激的なことを常に求めている感じですよね。
橋本:ははははは(笑)。どうなんですかね? 好奇心というか、真っ平よりはなんかこう、起伏があったほうが面白いと思うんですよね。あと僕は、時間を忘れられるほうが好きなタイプなんです。アルバイトでも暇な時間より忙しい時間のほうが好きだったので、もしかしたら常にそういう状態を求めているというのはあるのかもしれないです。
――日本でもご活躍されてから中国に渡ったわけですが、ファンの方の反応の違いなどは感じていますか。
橋本:中国では、みんな親みたいな感じで「大丈夫、大丈夫」って見てくれるような気がします。外国人だから、「あ、前より中国語うまくなってる」とか、「コミュニケーション取れるようになってる」とか成長が見えやすいんでしょうね。そういうところに気づいてくれて評価してくれるファンの方がすごく多い印象です。日本のファンの方は、常に僕が投げているものを、どうキャッチしようかって考えてくれてる気がしますね。「次はどんな作品を見せてくれるんだろう?」とか、そこを楽しみにしてくれてる方が多いと思います。今回の「愛を知っている」のアレンジは中華寄りにしてるので、この3年間の集大成みたいなものを感じてほしいですね。歌い方の部分でも、中国語の歌を歌ったことによって、自分の中で“押し引き”みたいなものを、前より歌の中で使うことが多くなりました。そういう面でも、中国語の歌に触れたことによって変わったところは結構あると思います。
――これは日本にはないな、みたいに感じるニュアンスも多いですか。
橋本:たとえば、サビが全部裏声とか。そういう歌でもいいんだっていうのは、中国に行って思いました。それによって情緒も伝わりやすいし、裏声をすごく学べましたし、すごく幅が広がったと思います。
――今のご時世もあって、国内外で活躍している方に話を訊く機会ってあまりないんですけど、新型コロナウイルスや戦争とか、人々が分断されていくような世の中で、こうやって国籍などに関係なく活躍されている方の言葉はすごく興味深いです。橋本さんの存在を知ることで、自分も海外を目指してみようとか影響を受ける方もいるのではないでしょうか。
橋本:はい、そうだったら嬉しいですね。
――ご自分では、中国に移住してから人として成長したこと、変わったことというとどんなことを思い浮かべられますか?
橋本:いい意味での“我の強さ”みたいなのが出てきたと思います。僕はもともと人に合わせたり、自分の意見を殺したりするようなタイプだったんです。でも中国に来てから、ものづくりをするうえで自分の思ったことはしっかり伝えて、ちゃんと話し合って、喧嘩してもいいからいいものを作っていくという文化に触れることで、「じゃあ自分も強くいていいんだな」って思えるようになりました。今までは自分の意見を言わないことが正義だと思っていたけど、言ったほうが信頼にも繋がるし、 自分も妥協しなくて済むし。新しい意見に触れられることは、すごく勉強になりました。向こうの仕事のスタイルというか、たまたま僕が触れ合った人がそうだっただけかもしれないですけど、それがすごく、いい意味で自分の人間性に影響を与えてくれましたね。
――これからの活動にも積極的に活かせそうですか?
橋本:そうですね。自分というものを強く持って突き進んでいけそうだなって気持ちになりました。なんというか、“自分で自分を頼れる”部分が前より増えたなと思いますね。
――“自分で自分を頼れる”っていい言葉ですね。
橋本:まだ全然頼りないんですけどね(笑)。
――こうしてお話を伺っていても、すごく芯の強さを感じました。今後の活動予定やチャレンジしてみたいことがあれば教えてもらえますか。
橋本:まずは「愛を知っている」をたくさんの方に届けたいです。それと、今20代後半に差し掛かっているので、自分の気持ちや考え方を成長させたいなと思っています。たぶんこれからさらに刺激を求めるようになるんじゃないかなって今自分でも予想しているんですけど、もっともっといろんなことにチャレンジしていきたいですね。
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