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プリンス『1999:スーパー・デラックス・エディション』リリース記念、デズ・ディッカーソン最新インタビュー 初期の“殿下”を支えたギタリストの証言。
プリンスの1982年の傑作アルバム『1999』が、CD5枚+DVD1枚、計6枚組BOXセット『1999:スーパー・デラックス・エディション』として、本日11月29日にリリースされた。プリンスがスターに駆け上がる、まさにそのすぐ傍らにあったアルバムのリマスターという部分ももちろん、そこに収録された35曲(!)もの未発表トラックと、未発表のライブ映像という驚異的な内容も含めて、リリースの発表時から音楽ファンの間で話題騒然となっていた本作。そのリリースに際し、Billboard JAPANでは、当時のプリンスのバンドメンバーでもあったギタリストの「デズ・ディッカーソン」へのインタビューを実施。質問作成と本文の執筆を、生前のプリンスに2度のインタビュー経験があり、本サイトでも度々プリンスの特集記事を執筆している内本順一氏に担当してもらった。37年近くを経て、語られ、綴られる言葉を通して、歴史的な作品の響きに新たなイメージが加われば幸いだ。
イントロダクション:1981年、82年のプリンス
「2枚組のアルバムを作りたくはなかった。でも曲を書き続けた。いつもソングライティングを、ドアから入ってくる女の子のように思うんだ。どんなふうなルックスかわからない。ただ、突然彼女は現れるんだ」
これは1982年のプリンスの言葉だ。が、突然ドアから入ってきた女の子は、実際のところ「2枚組」という部屋に収まるような数じゃなかった。じゃあ一体何人くらいの、どんなルックスの“女の子”たちがこの時期のプリンスの部屋(=頭のなか)に入ってきたのか。これまでプリンス以外に知る由もなかったそのことが、2010年代がもうすぐ終わろうとしているいま明らかになる。
1982年10月27日、プリンスの5作目となるアルバム『1999』が発売された。いまから37年前のことだ。その1年前(81年10月14日)にプリンスは4作目『戦慄の貴公子(Controversy)』を出して、【コントラヴァーシー・ツアー】 (1981年11月~1982年3月)を行ない、そのツアーが終わるとセクシーな女性トリオ、ヴァニティ6のデビュー盤を制作。それが完成をみた82年夏にミネアポリスの自宅スタジオで集中的に録音したのが『1999』だった……と、これまでのいくつかのプリンス関連書物やライナーではそうされていたが、実際はそうではない。【コントラヴァーシー・ツアー】がスタートした81年11月に始まり、12月、82年1月と、ツアーの最中も少しでも時間があればスタジオに入って録音作業を行なっていたのだ。それは82年4月、5月、6月、7月と続き、曲数は膨れ上がっていった。その膨大なトラックのなかからテーマに沿いつつバランスを考え、2枚のレコードに収まる11曲を選び抜いて形にしたのが『1999』というアルバムだったのだ。
▲Prince - 1999 (Official Music Video)
因みにヴァニティ6のデビュー盤『セクシー・ハリケーン(VANITY6)』が出たのが82年8月11日で、ザ・タイムの2作目『ホワット・タイム・イズ・イット?』が出たのが同年8月25日。どちらもプリンスが曲書きとプロデュースを行なったものだ。だから僕(たち)はかつてこう思っていた。「『戦慄の貴公子』の1年後に2枚組の『1999』を作り上げて、しかもヴァニティ6とザ・タイムの曲も同時期に作ってしまうプリンス、仕事量がとんでもないな」と。だが実際はこっちが思っていた「とんでもない」の度合いを遥かに超えた数の曲を作って録っていたわけだ。
そのなかには、何年か経って世に出たものもある。例えば『パープル・レイン』(84年6月)に収録された「ベイビー・アイム・ア・スター」はもともと81年12月に録音された曲だし、『バットマン』(89年1月)からのシングル「パーティマン」のカップリングで世に出た「フィール・ユー・アップ」は81年11月に録音された曲だった。そんなふうに後にリリースされたものもあるし、形を変えて完成したものもあるが、しかし多くのトラックは、この時点ではプリンスのヴォルト(倉庫)で眠らされることとなった。いや、この時期に限らずプリンスはそれこそ最期までずっとそうやって時間さえあれば常に曲を録っていたひとであり、だからヴォルトには星の数ほどの未発表曲が眠っているわけなのだが。
驚異的な創造力を改めて“暴く”BOXセット
さて、リリースが発表されたときから「これはすごい」とファンたちを驚かせていた『1999:スーパー・デラックス・エディション』がいよいよ11月29日に発売になった。これは5CD+DVDの6枚組ボックスで、ディスク1には原盤アルバムのリマスター音源を収録。名盤でありながら今回が初リマスターで、立体感が格段に増しており、新たな発見もいろいろある。しかし、もっとすごいのはディクス2以降。そこ(ディスク2、3、4)にはアルバム曲の別バージョンやシングルB面曲といったレア・トラックに加えて、なんと20曲以上の未発表スタジオ・トラックが録音時期に沿って収められているのだ。そう、突然プリンスの部屋にドアから入って、およそ37年の間眠り続けていたさまざまなルックスの個性的な女の子たちが、2019年の終わりに目を覚まして僕たちの前に姿を現したというわけだ。
それは『戦慄の貴公子』リリース直後の81年11月から82年夏の間に録音された曲たちで、当然『1999』用にプリンスが用意したものだが、明らかにそれとは関係なく書かれたのであろう曲も入っているし、そればかりか『1999』リリース後、ツアーが始まってからバンドの演奏ガイドとして録られたデモも含まれている。また、ディスク5には『1999』リリースから約1ヵ月後の未発表ライブ(82年11月30日のデトロイトのセカンド・ショウ)を収録し、ディスク6にあたるDVDにも別の未発表ライブ(82年12月29日のヒューストン公演)を収録。秘蔵音源の楽曲ごとの詳細はプリンス研究家デュエイン・テュダールによるライナーに詳しいはずなのでそれを読んでいただくとして、ここではこの時期にプリンスと活動を共にしていたひとりのギタリストの証言を紹介していくとしよう。
リリース情報
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文:内本順一 通訳:前むつみ
協力:長谷川友、ワーナーミュージック・ジャパン
デズ・ディッカーソン:『1999』最新インタビュー(前半)
▲若き日のプリンスとデズ
by Gene Sweeney Jr/Getty Images
ひとりのギタリスト。アルバム『1999』とそのツアーで目立った活躍をしていたデズ・ディッカーソンだ。1955年8月にミネアポリスで生まれたデズ(プリンスの3つ上ということになる)は、プリンスがデビュー盤『フォー・ユー』の発表後に作ったバックバンドの一員で、当初はアンドレ・シモーン(ベース)、ホビーZ(ドラムス)、ゲイル・チャップマン(キーボード)、ドクター・フィンク(キーボード)と共にプリンスを支えた。『1999』の表題曲では歌い始めのリサとジル・ジョーンズを引き継いで低い声で歌っていたが、それよりも同曲のミュージックビデオで「神風」のハチマキをして弾いていたあの男だと書いたほうがわかりやすいだろう。その彼が当時を振り返って話してくれたのだ。まずはプリンスとの出会いについて。
「当時のプリンスのマネージャーが、地元のエンタテインメント・フリー・マガジンに、ワーナー・ブラザーズのアーティストがメンバーを募集しているという広告を出したんだよ。その頃ミネアポリスのアーティストでワーナーと契約しているのはひとりだけだったから、誰のことだかすぐにわかった。自分はほかのバンドでプレイしていたんだけど、オーディションを受けてみた。15分程度ジャム・セッションをして、彼といろいろ話をして……。で、OKの返事をもらったってわけさ」
そんなデズは、もう『1999:スーパー・デラックス・エディション』を聴いただろうか。聴いたとしたら、どんな思いを持っただろうか。
「聴いたよ。すごく懐かしかった。長いこと聴いていなかった曲もたくさんあったし、初めて聴く曲もあった。“ドウ・ユアセルフ・ア・フェイヴァー”は94イースト(*プリンスがデビュー前に参加していたプロジェクト。曲はプリンスの従姉妹と結婚していたブルックリン出身のペペ・ウィリーの手によるもので、彼に頼まれてプリンスは94イーストに参加し、マルチプレイヤーとしての才能を開花させた)の曲で、知ってはいたものの、今回収録されたバージョンは初めて聴いたので興味深かったね。あと、“デリリアス”のフル・バージョンも初めて聴いた。驚いたのはその2曲かな。リハーサルでやったことがあった曲もあって面白かったよ。ほかにも聴いたことのなかった曲がいくつかあって、インストゥルメンタルの“コリーン”もそのひとつだった」
『1999』のレコーディングに関して、印象に残っている特別なことはあるだろうか。そう訊くと、彼はこう話した。
「“1999”の始まりの声があるでしょ? ハーモナイザーを使った低い声。あれはプリンスの声なんだけど、後半でまた低い声で“ナインティナインティナ~イン”と繰り返すところは、実は僕が歌っているんだ。彼が急に歌えって言ったんだよ。彼はいつも自分で録音したものを用意してレコーディングに臨んだけど、それはあくまでもベーシックなものであって、僕たちの意見を反映させるスペースも残していた。全てをカッチリ決めていたわけじゃないんだ。だいたいの方針は決めてきてたけど、あとは実際に演奏したり歌ったりしながら、ほかの誰かの意見も聞きつつ完成させていった。あの頃は日常的に彼と一緒に曲に取り組んでいたから、お互い言葉を発しなくてもわかりあえてたところがあったね」
表題曲に続く2曲目「リトル・レッド・コルヴェット」は、デズが大きく貢献した曲だった。コ・リード・ヴォーカルとしてもリサとデズがクレジットされていたが、何よりあのギターソロ。それはアメリカの音楽誌『ギター・ワールド』の読者が選んだ「史上最高のギターソロ名曲100選」に入ったりもしたほどだ。あのソロはどのように生まれたのだろうか。
「あの頃はプリンスが曲を完成させようとしているタイミングで僕が家に呼ばれ、アイデアを交換しあったりしていた。“リトル・レッド・コルヴェット”のときも彼が曲を流して、僕に意見を聞いてきたんだ。それで、この部分にギターソロを入れたいから弾いてくれと言われ、思いつくままに何パターンか弾いたんだよ。結局、その何パターンかのいろんな部分を繋ぎ合わせて、一緒に新しいソロを構築したんだ」
▲Prince - Little Red Corvette (Official Music Video)
先にも書いた通り、『1999:スーパー・デラックス・エディション』には【1999ツアー】が始まってからバンドの演奏ガイドとして録られたデモも収録されている。ディスク4の最後、「レディ・キャブ・ドライヴァー/ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー/リトル・レッド・コルヴェット(ツアー・デモ)」がそれだ。これが示すように、プリンスは普段からライブでの演奏の仕方をメンバーたちに具体的に指示していたのだろうか。
「まず、レコーディングのときは彼が自分で演奏したものを持ってきて、バンドでジャム・セッションを繰り返しながらいろんなことを試して曲を完成させるやり方だった。ツアーに出る頃には1曲につき異なるバージョンが山ほどできていたものだよ。そしてライブで演奏するのはレコーディングしたバージョンが基本となっていたけど、彼が僕らにどう演奏してほしいかを指示することが多かった。とはいえ、僕たちメンバーは自由に演奏することもできた。特にギターソロに関しては、好きなように弾けばいいよって言ってくれていたんだ」
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文:内本順一 通訳:前むつみ
協力:長谷川友、ワーナーミュージック・ジャパン
デズ・ディッカーソン:『1999』最新インタビュー(後半)
【1999ツアー】は1982年11月にスタートした。バンドメンバーは【コントラヴァーシー・ツアー】と同じく、デズ・ディッカーソン(ギター)、ブラウン・マーク(ベース)、ドクター・フィンク(キーボード)、リサ・コールマン(キーボード)、ボビーZ(ドラムス)。アメリカとカナダではそれまでより会場が大きくなり、アリーナでも演奏。“3倍の脅威のツアー”と称してもいた。『1999:スーパー・デラックス・エディション』では、ツアーが始まったばかりのデトロイトはマイソニック・テンプル・オーディトリウム公演(4日連続公演の初日)と翌月のヒューストン公演の模様を確認することができるわけだが、レコードが売れ出して初めてのこのツアーとそれまでのツアーとで、プリンスの意識に変化は見られたのだろうか。間近にいたデズはこう話す。
「【1999ツアー】では彼にヴォーカル・コーチがついていたし、過去のツアーの経験を活かしたいろんなシステムができあがっていた。プリンスは会場に着くとサウンドチェックをして、いろんな準備をしていたよ。声を保つために必ずウォーミングアップをしていたし、僕たちも決められたルーティンをこなすよう求められた。なにしろそれまでで一番大きなツアーであって、クルーの数も機材の規模もそれまでと比較にならないほどだったからね。彼はひとりでバスに乗り、ほかのメンバーはみんなでもう一台のバスに乗った。彼の楽屋は個室で、バンドの楽屋は共同だった。でも、ツアーの終わり頃には僕も個室をもらえるようになったけど(笑)。とにかく、彼の成功と共にツアー規模が大きくなって、ビジネス的にも大きなお金が動くようになったのがわかったし、それと並行してシステムもしっかりしたものになっていった。まあ当然のことだよね」
デズは、まだバンド名のなかった頃から、ザ・レボリューションと呼ばれるバンドになっての比較的初期までプリンスと共に演奏し、「細部にまでとことんこだわる彼の姿勢と完璧主義に刺激を受けて、僕自身もどんどんハードルを上げていくことになった。そのおかげでプレイヤーとしてものすごく成長できたと思う」と言う。だが、商業的にも大成功に終わった【1999ツアー】が83年4月に終了すると、デズはザ・レボリューションから脱退した。それは信仰上の理由だとされていたが、実際はどうだったのだろう。
「信仰上の理由も確かにあったけど、ほかにも理由はあった。なんていうか、だんだん居心地が悪くなっていったんだよね。よく覚えているのはワシントンDCでのショーなんだけど、8歳くらいの女の子が観に来てて。そのとき僕はプレイしながら、自分の娘にはこの曲を聴かせたくないなと思ってしまったんだ。どの曲かは言わないけど、そういう気持ちにさせる内容の曲だった。それと、【1999ツアー】には映画『パープル・レイン』の脚本家が同行していて、ツアーが終わったら僕たちもダンスレッスンや演技の練習をさせられることになるのは明らかだった。ツアーが終わると、プリンスは“あと3年、自分と一緒にやることを約束できるか”と僕に訊いてきた。そのとき僕は、“このへんで彼と別れて自分自身のキャリアを考えよう”と思ったんだ。僕は疲れていたし、そのままバンドを続ける気力がもうなくなっていた。ダンスレッスンも、そこからまた3年間バンドでプレイすることも、できないと思ったんだ」
脱退の意向をプリンスに伝えるのは、辛いことだったのだろうか。
「いや、そうでもなかったよ。彼とはすごく親しかったし、お互いに腹を割って話したから僕の気持ちを理解してくれたし、ソロになることにも協力的だった。ソロになってからの僕のライブも観に来てくれたし、レコーディングしているときにスタジオに遊びに来てくれたりもした。僕がいつかバンドを辞めることを、彼も初めからわかっていたんだと思う。あのときは、“その時期が来た”という感じで、僕らは友好的に別れたんだ」
▲Prince - Why You Wanna Treat Me So Bad (Official Music Video)
実際、デズの結成したバンド、モダネアーは、映画『パープル・レイン』のなかでも演奏した。一方、ザ・レボリューションにはデズに代わってウェンディ・メルヴォワンが加入したのだった。最後に聞いてみた。あなたがプリンスと出会って本当によかったと思えるところ、プリンスからの教えでいまも大事にしていることがあったら、教えてくださいと。
「全部だよ。彼とはユーモアのセンスがすごく合ったから、話していて本当に楽しかった。出会った頃はまだスターじゃなかったプリンスがだんだんと成功してスーパースターに上り詰めていく時期を一緒に過ごすことができたのもよかった。ただ、有名になるにつれて自由がなくなっていったのは気の毒だったね。自由に出かけることさえままならなくなっていったから。だけど、そんな状況になってしまったあとでも彼は地に足がついていて、僕らの友情も変わらなかったし、会えばジョークを言って笑い合っていた。彼との思い出のベスト・パートはそこかな」
「彼はイノヴェイターであり、常にほかのひととは違う独自のものをクリエイトしていた。でもその一方で、一貫して変わらないものを大事にしていた。アルバムでもコンサートでもね。だからファンが離れなかったんだと思う。独特のことをやっているようだけど、その表現のなかには必ずファンにとって親しみが持てる要素が含まれていた。そういうことの大事さを、僕は彼から学んだんだ」
革新性と共存するポップ性。そして40年近く経ってもまるで色あせない楽曲の不変性とプリンスの姿勢の一貫性。そのあたりも感じ取りながら、デズも多大な貢献をしていたこの時期の素晴らしい記録となる『1999:スーパー・デラックス・エディション』を隅から隅まで味わって聴いていただきたい。
リリース情報
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文:内本順一 通訳:前むつみ
協力:長谷川友、ワーナーミュージック・ジャパン
1999:スーパー・デラックス・エディション
2019/11/29 RELEASE
WPZR-30870/5 ¥ 10,780(税込)
Disc01
- 01.1999
- 02.リトル・レッド・コルヴェット
- 03.デリリアス
- 04.夜のプリテンダー
- 05.D.M.S.R.
- 06.オートマティック
- 07.サムシング・イン・ザ・ウォーター
- 08.フリー
- 09.レディ・キャブ・ドライヴァー
- 10.ニューヨークの反響
- 11.インターナショナル・ラヴァー
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