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熊木杏里 『光の通り道』インタビュー
熊木杏里を10年間追い掛けてきてよかった。
そう心から思えるアルバム『光の通り道』が完成した。今作を夜な夜な聴きながら「凄いよ」と涙ながらに笑えたのは、「心の天気に晴れはない」と歌っていたデビュー当時や、窓の外へと飛び出して自分の歌を次々と世に響かせていった覚醒期、多くの別れや葛藤を経験した試練の日々など、10年目にそれらすべてを飲み込んで「自分に続いて行けるよ 今」と“心のまま”歌い放てる熊木杏里がいたから。
人が心のままに生きることは難しい。けれど、心のままに生きることは正しい。そのことを自らの人生でもって体現しようとしたシンガーソングライターの集大成インタビュー。ぜひご覧下さい。
人と関わると心乱されるから、それを嫌がっていた
--2002年2月21日リリースのデビュー作『窓絵』から10年ですよ。
熊木杏里:「この長さが10年なんだなぁ」って。音楽を始めたのとデビューがほとんど一緒だったんですけど、10年間きっちり音楽を……ちょっと間が空いた時期もありましたけど、よくぞ曲を出し続けてこれたなと思っています。
--せっかくの10周年なんでルーツを辿りたいんですけど、長野県更埴市で生まれてから上京するまではどんな女の子だったの?
熊木杏里:ジャイアンみたいな感じの娘でした(笑)。すごく元気で、引っ張っていくタイプの、男の子にも負けない女の子。でもちょっとお友達とケンカするとよく泣いて帰ってきて。好き故に空回りしちゃってケンカしちゃうんですよね。
--気が強かったんですね。
熊木杏里:強かったんですよ。友達のことを大好きになっちゃうと「いつも一緒にいたい」って思ってしまう。自分なしで他の友達と遊ばれたりするとヤキモチ妬いて、変な風に立ち回って「あいつ、なんだ?」みたいな感じになっちゃって(笑)。それで「おばあちゃーん!」って泣きながら家に帰るっていう。
--家ではどんな娘だったの?
熊木杏里:幼稚園や学校で『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』とか有名な曲を耳で覚えて、家に帰ったらエレクトーンとかですぐ弾ける娘だったんですね。弾いて歌う楽しさはその頃から感じていて。
--その頃から音楽は好きだったんですね。ところで、2005年発表の『長い話』で歌っている「財布の中身と終電が終わっても 引き止めてくる彼が好きで別れた(18歳)」「画家を目指したことはお蔵入りになった(19歳)」など、これらはすべて実話だったんでしょうか?
熊木杏里:すべて実話です。朝帰りもしましたし。それでもやっぱり親が大事だと思って帰ってきたりしてるくだりもあるし。たまに暴露したくなるときがあるんだなということは自覚した(笑)。あまりに良い娘をやっていると「事実ってこうなんだよ」ってリアルに書き綴りたくなる。
--じゃあ、10代の頃から泳ぎ回ってはいた訳だ?
熊木杏里:泳いでましたよ。友達が大好きだから何とか一緒にいたいと思ったり、そういう本質的なところはずっと変わってないですし。
--ということは、相変わらず女同士の付き合いは面倒くさい感じなの?
熊木杏里:今は距離を置いて、たまに会いに行く。
--大人にはなったんだ?
熊木杏里:あんまり親しくなり過ぎちゃうと、すごくヤキモキしてきちゃうから。だからちょっとだけ距離を置く(笑)。
--画家も目指していたんですね。
熊木杏里:画家になろうと思ってましたよ。土手とか行って「さあ、今日はどうしようかな」って言ってましたもん。でも未来が見えなかったんで。
--熊木さんの画はいくつか見たことありますけど、音楽選んでよか……
熊木杏里:静かにしてください!
--(笑)。個人的には、音楽が合ってると思いますよ。
熊木杏里:そうだよね~! たむらぱんさんとかさ、ガチで画けるじゃないですか。ああいうの、ズルいですよね。
--熊木さんの画も素敵ですよ。で、その世間で言うところのいわゆる青春時代には、将来的にシンガーソングライター 熊木杏里が歌っているようなことを描いていく予感はあったの?
熊木杏里:うん、ありましたね。だからデビュー当時は「こういうことをやってやろう」っていう意識が強かったし。言ってみれば、VAP時代(2002年2月21日リリース Sg『窓絵』~2003年3月26日リリース AL『殺風景』まで)は自分で解って、自分で表現していた。フォークソングが大好きだったから、その延長で、ちょっと暗くって、あんまりポップスっていう感じじゃない世界で面白いことを紡ぎ出す。そういう野望がありました。
--デビュー曲『窓絵』の「雨も降るけど 雪も降るけど 心の天気に晴れはない」というフレーズは、当時の熊木杏里を象徴していましたが、デビュー前からそういう閉鎖的なモードだったの?
熊木杏里:ずっとそういうモードだったんですよね。“ここにいる自分じゃない自分”みたいなことをすごく考えていたし、自分の世界の中にあるものを探りに行くと、どうしても孤独に向かって行っちゃってたんですよね。だから自分から出てくる音楽もそういうものになっていたし、その曲を歌っているうちにまた「そういう自分なんだ……」みたいな風になっていってましたし。とにかく人と関わると心乱されたりするから、それを嫌がっていた。
--そうなっちゃった要因って何だったんでしょう?
熊木杏里:「学校辞めたいな」と思っていたときがあったから。高校時代、大好きだった女友達の輪の中に、本来の自由な女の子 熊木杏里では居られなかったんだよね。都会の、いろんな人種が集まった女子校だったんですけど、そこで自分の居場所は見つけられなくて。それから「あんまり人の心に入っていきたくないな」って思い始めた。長野にいたときは無闇にわぁ~!って入っていけたから、今でも長野の友達に会うとそういう自分に戻れるんですけどね。だから季節もね、夏とか冬とか分かり易い時期が好きだった。春とかは人との距離感が微妙になって分かりづらくなるから、独りで悩んでました。人は大好きなんだけど、自分としても落ち着く距離をどうやったら保っていけるのかなって。
--後に熊木杏里が“春”の歌を多く発表するのも、そこが関係してるの?
熊木杏里:うん。とても春は悩ましげな存在だったから。ボツにした春ソングもいっぱいありますよ。“修羅”みたいな言葉が出てくるやつとか。
--春ソングとしては画期的ですね(笑)。
熊木杏里:でも「心の天気に晴れはない」みたいなモードは『無から出た錆』(2005年2月23日リリースの2ndアルバム)までだったと思います。そこからもしばらくは曇りでしたけど、自分で「このままの自分ではいけない」と思ったので。それで生まれたのが『風の中の行進』ですね(2006年9月21日リリースの3rdアルバム)。
Interviewer:平賀哲雄
10年間で固まっちゃった自分に「あれ?違うよ」
--実際、それまでは引き篭もっていたの?
熊木杏里:引き篭もっている感じだった。でもその感じだとどうしても“修羅”とか出てきちゃうから(笑)。そんな中、吉俣良さん(当時の熊木杏里のサウンドプロデューサー。ドラマ「Dr.コトー診療所」「篤姫」、映画「冷静と情熱のあいだ」「バッテリー」などの音楽を手掛けている)が太陽のような人で、無理やり外に出してくれたんですよ。あと、吉俣さんの周りにいる人たちも全員明るいから、最初はふてくされていたんですけど、そっちのキラキラした感じにだんだん惹かれるようになって。だから誘われたら外に出るとか、断らないで行くとか、そういうことを無理やりやってみたんですよね。
--その結果、『風の中の行進』以降の熊木杏里は外へ向けての行進をゆっくりと始めます。改めて聞きますけど、なんで歩き出したんだと思います?
熊木杏里:……寂しかったからですね、きっと。だからもっと自分から歩いていこうとした。
--そしたら資生堂企業CMソング『新しい私になって』や、映画「バッテリー」主題歌『春の風』の話が舞い込んできて、劇的に世界が広がっていく訳ですけど、あの時期を今振り返るとどんなことを感じます?
熊木杏里:「神様っているんだな」って思いました(笑)。というか、明るい気持ちを浮かべていると、それを察知してくれる人がいるんですよ。連動している。無理くりでも世の中に出ていこうとすれば、アクションを起こせば、それに反応してくれる人がいる。松本人志さんの映画「しんぼる」みたいに、誰かが何かをやった瞬間にどこかで影響が出ているっていう。
--多くの人や環境と積極的に接触していって、歌も『ひとヒナタ』(2008年11月5日リリースの5thアルバム)まではどんどん前向きに、外を向いたものになっていきました。あの頃の熊木杏里って自分のこと好きだったよね、多分。
熊木杏里:(笑)。……そうですね、好きでしたね! どんどん前に進んでいましたもんね。でもそれは人と関わっていく感じが嬉しかったからだと思う。寂しかった時期と比べたときに「今の自分ってあったかいな」って感じていたから。そうなると、やっぱり上機嫌になっていく。ただ、その後の『はなよりほかに』(2009年11月6日リリースの6thアルバム)のときは悩んじゃってた。
--人と深く繋がっていく歓びも得た訳だけど、『はなよりほかに』はそれ故の悲しみや切なさも表現することになった印象でした。実際にはどんな状態だったんですか?
熊木杏里:それまでの温もり感では「もう曲を生み出すことは不可能だ」と思っちゃったんですよ。自分で作り上げた土台を崩したい、違うところへ行きたい気持ちになった。だからライブとかも苦しくなっていたんです。「自分ってそれだけじゃないだろう?」っていう気持ちが出てきていたから。
--あの時期は『君の名前』で歌われている失恋もありましたよね。
熊木杏里:あれはやむを得ない事件でしたから、自分の中で一番のニュースだったんですよね。ある意味、それがちょっとだけ自分を地に戻してくれたから『君の名前』みたいな曲は出来たんだと思う。優しさの中にいた自分だったから、寄りかかれるような曲にはなったんですよ。でもそこからはどういう曲を作っていいのか分かんなくて「もうダメなのかな?」とも思ってたし。「誰か助けてくれ」みたいな気持ちになってましたね。すごく藻掻いてた。その中でも『はなよりほかに』では見つめようとしていて。外ばかり見るようになっていた自分から、焦点が再び己の中に向かい始める兆しはあったんだなって今は思います
--その後も、2010年にはそれまでの事務所やレーベルと離れ、2011年には震災という無視できない出来事にも直撃。しばらく試練とも言える期間が続きましたよね。正直苦しかった?
熊木杏里:うん。苦しい時期でしたね。ただ、2010年はスタッフみたいなことも自分でやっていたから、歌は自分に集中できたり、余分のないものなんだなって、歌の姿を見つけることができた。あと、あの試練の時期を超えたことで、熊木杏里の音楽はちゃんと自分だから、曲を作ってみたときにようやく自分が成り立つというか。自分が成り立っていて音楽が成り立っているというよりは、音楽が成り立って自分が成り立っているところがあるなって認識できて。それはこのアルバムを作ったことで分かったんですけど。
--そんな熊木杏里が10年目に辿り着いたアルバム『光の通り道』なんですが、どんな自分が詰まった作品になったと感じていますか?
熊木杏里:人に対して「こういう風に接したい。繋がりたい」っていう気持ちも入ってるし、その一方で「がんばりますっていう言葉は絶対嫌なんだよ」みたいな自分もいるし……“ちゃんと私がいるな”“熊木杏里が生活しているな”っていう感じがする。だから『and...Life』(2011年10月5日リリースのミニアルバム)に比べると、フォークソングが好きで聴いていたときの感じに似てる。歌詞聴いて泣いたり、しみじみしたりしていた頃の雰囲気に。
--わたくし、朝方にこのアルバムを聴いて、冒頭の『光の通り道 ~prologue~』から『シグナル』の流れに泣かされました。ひとりで「凄いよ!凄いよ!」って叫びながら、泣きながら笑ってたんですけど。
熊木杏里:面白い! というか、気持ち悪い(笑)!
--褒め言葉、ありがとうございます。で、『光の通り道 ~prologue~』の「戻りたい場所に 会いたい人に もう会えなくても 繋がっていたいから 私だけが行ける 光の通り道を探しているんだ」って、失ったことがある人なら誰もが反応する歌詞だよなって。
熊木杏里:失うというかね、必ずしも人は何かから離れたり、サヨナラをしたりするじゃないですか。私も10年の中でもう会えなくなってしまった人もいる。そういう人たちにも、思い出を辿ってアクセスしていけば触れることができるんだよっていう、目には見えない気持ちのルート。魂の通る道。それは光っているのかもしれないと思って書いたんです。今まで歩いてきた私の道はとても華々しく光り輝いていた、ということではなく。
--なるほど。
熊木杏里:武部聡志(アルバム『光の通り道』をプロデュース)さんとも話していたんですけど、きっと私の音楽はちょっと心が悲しかったり、暗かったりしたときに聴かれる。一人で聴いているような人も多いし。だから、世の中において自分は何かが足りないと思って「自分はダメなんじゃないか」となっていたなら、「その弱さはあなたにしかないもので、それが強さなんだよ」って言いたい。そこに向かって何かがしたい。そこには自分も含まれているんですけどね。今作のプロローグはそういう想いからも生まれてます。心の中に入りたかったんですよね。すーーっと。
--そこから『シグナル』のイントロが響いた瞬間。一気に世界が広がって、熊木杏里の歌が『風の中の行進』や『私は私をあとにして』の何倍もの力強さでもって歩き出すんですよ。それこそ10年間の中にいたネガティブな自分もポジティブな自分もすべて引き連れて!
熊木杏里:そうですね。その10年を良い意味でも吹っ切りたいし、引き連れていきたいし、両方あったかもしれない。それでワー!ドーン!ってしたんです。「熊木杏里の原点ってなんだ?」って考えていたら、なんか大人の感じというか、10年間で固まっちゃった自分に「あれ?違うよ」っていう危険信号が急に点ったんですよね。
--「耳を塞いでも 鳴り止まなかった声に まっすぐだったんだ」って、いつの頃の自分を歌ってるの?
熊木杏里:きっと暗黒時代ですよ。でもあの頃が本当に正直に生きていたんですよね、ある意味では。心のままに。あの清々しさは好きだったんですよ。好きでそこに溺れていたので。
--サビの最後が「素手で触れたはずなのに 自分にさえ掴まれない 今」から「もう一度掴めるように 自分にうつむかないから 今」「自分に続いて行けるよ 今」と変わっていく流れは、きっと熊木杏里の心境の変化そのものですよね?
熊木杏里:実際にそういう気持ちの動きがあった。最初は「自分にさえ掴まれない 今」って本当に思っていて。でもそれに気付いたんだから「続いて行けるよ」って。「素手で触れたはず」のあの頃の自分って、いろんなことに振り回されずに生きていたから、30歳になってまたここから歩んでいく人として、そういう自分をもう一回心に持っておくというのはきっと楽しいことだと思うんですよね。だから何かにがんじがらめになっている人へ、この『シグナル』が届いてほしい。
Interviewer:平賀哲雄
これからどんなことが起きても多分後悔しない
--また、10年目に「自分に続いて行けるよ 今」って歌えたことは、今後の熊木杏里にとってもすごく大きいと思いませんか? ある意味、過去も今も未来もすべて肯定できたってことじゃないですか。また、その肯定する覚悟や度合いが『風の中の行進』や『私は私をあとにして』とは違う。
熊木杏里:そうですね。否定せずに肯定している。それを感じてもらえてよかったです。
--続いて、3月7日にシングルリリースすることも決定した『Love letter ~桜~』は、桜ソングと呼ばれる楽曲の中においてトップクラスの名曲だと思います。万人が愛せるタイプの楽曲。自分ではどんな印象を持たれていますか?
熊木杏里:私も「良い曲だな」って作ったときに思いました。実は結構前からあった曲で、良いタイミングで出したくて「ようやく今なのかな?」って思えたんですよね。これも会えなくなっちゃった人がいて生まれた曲です。で、本当に手紙みたいにシンプルなんで、ちょっと古風。今までの春の歌に比べると、一番朗らかな春の景色が浮かぶ曲かな。『春の風』とかはちょっと痛々しさもあるけど、この曲は全体的に優しい。
--そのシングルのc/wには、コブクロ『桜』のカバーが収録されるそうですが。
熊木杏里:桜ソングをリリースするってなったときに、この曲がふと浮かんで。全面的に桜をアピールするシングルにしてみてもいいんじゃないかなと思い、コブクロ『桜』カバーの話をして。去年がね、自分としてもあんまり桜を見た記憶がなかったから、この『Love letter ~桜~』が世に出るのであれば、そういうカバーも入るのはいいなって。カバーが表題になったらちょっと悲しいけど(笑)桜を届けるという意味では入れたいなと。これもまた新しいチャレンジでしたね。
--話をアルバムに戻します。続く『「がんばります」』。この曲は『シグナル』同様、思うように生きれない苛立ちから生まれていると思うんですが。
熊木杏里:この曲が生まれる前に、武部さんから「吉田拓郎さんの『言葉』って知ってる?」って聞かれて、改めて家で聴いてみたんですよ。そしたら「愛してる」って言葉が必ず最後に入っていて。その「愛してる」の素晴らしさとかの説明は全然なくて、いろんな物語の最後にただ「愛してる」って入ってるんですよ。それを聴いたときに「がんばります」っていう言葉が嫌いなことを思い出して。人に会ったりすると「あ~がんばります。がんばります」って言ってる自分がいて、「おいおい、何をがんばるのか分かってるのか?」みたいな感覚が己に対してあって。そういう苛立ちを拓郎さんみたいな手法でメッセージに昇華しようとしたら、歌詞の最後にとても良い答えを見つけられた。
--で、その後に続く『今日になるから』『羽』『お祝い』の温かさがまた嬉しいんですけど、ここに来て熊木杏里は誰かと生きていくことを見つめ直したんだなと思って。そして気付いたことを明確な言葉とメロディで紡ごうとした。
熊木杏里:うんうん。こういう風に人と関われたらきっと良いんだろうなっていう。知り合った人たちはみんな自分のことで一生懸命な訳じゃないですか。それでもやっぱり誰かのことを救ってるし、自分も救われてるし。人というのは、別に震災があったからではなく、そうなんだなって。『今日になるから』の「ひとりで泣かないでくれたから 今 私はあなたの胸になれた」みたいな関係は生まれてくる。
--あと『お祝い』は自分の知る限り、最高のプロポーズソングですよ。“あなた”と“私”で生きていくことの素晴らしさを最高の言葉で伝えてくれている。
熊木杏里:本当ですか? 恥ずかしい感じが自分の中では若干生まれてきちゃってるんですよ。それぐらい言葉が真っ直ぐだから。狩野良昭さん(デビュー当時から熊木杏里を支えてきたギタリスト)も「くまきんが“だって初めてなんだもの”って歌ってるよ」ってビックリしてました(笑)。
--また、今作の凄まじいところは、終盤で『シグナル』級の開放的なメッセージソングが続くことで。『A day in my life』『wonder land』『願いの糸』と新たに力強く始まっていく感じがあって、また奮い立たされるっていう。
熊木杏里:そうなんですよね。『A day in my life』は武部さんが「すごく格好良くなる」って言ってくれた曲なんですけど、元々はフリーのときに書いた曲で。ちょっとヤケクソじゃないですけど(笑)結構そういう心境で作っているから「悪あがきだっていいんだよ」とか歌ってる。それさえも人生の中の1日なんだよって言い聞かせてる。そういう息吹を温かい楽曲たちの後にグワっと感じてほしかったんです。切り込みたかった。
--で、『オルゴール』で泣かすっていうね。この曲はずるい。音も声も言葉もピュアだから、心に沁みすぎる。
熊木杏里:私もすごく好きな曲。メロディの間も、歌っていないところの雰囲気とかも、すごく音楽っぽい感じがするし、ロマンもある。初めて会った人なのに「前から一緒にいたような気がする」みたいなことがあって、その優しい時間、心境を大事にしようと思って『オルゴール』という曲を作った感じですね。
--そして『心のまま』。2009年【熊木杏里 SPRING TOUR 2009 ~花詞~】で初披露してから、形を変えながら、3年弱の時を経てようやくここに収録されることになりました。まずこれだけの時間を要した経緯を聞かせてください。
熊木杏里:この曲を音源としてリリースする環境が整わなかった、というのもあるんですけど、音源化されてなくても多くのファンの人から「良い」という声が聞こえていたので、大事にしなきゃいけないと思っていて。それで3年弱もライブで歌い続けてきたからこそ力を付けたんですよね。ずっと自分の励みにもなってましたし。最初に披露したものからは少し形が変わりましたけど、言いたかったことは要するに「心のまま感じてごらん 生きているのは誰なんだろう?」そこに集約されていたんですよね。
--そうですね。
熊木杏里:今回のアルバムを通して熊木杏里がやりたかったことは、嘘をついて何かに手を伸ばしてもしょうがなくて、この私が感じていることを大事にしなきゃいけないっていうこと。それを表現することだったから『心のまま』はすごく大切に大切に形にしていきました。最後のドラマティックなアレンジの中で『光の通り道 ~epilogue~』へと繋がっていく流れも含めて。……“心のまま”に生きるって難しいんだけど、歌だからね。それを言ってのけたい。
--自分はこの曲を、今日まで熊木杏里とその音楽に関わってきたすべての人に聴いてもらいたい。で、そのみんなに絶賛されながら、ここからの10年間を歩んだり、新しい人たちに出逢っていってもらいたいです。
熊木杏里:はい。
--では、〆に入っていきたいんですが、ここに至るまでの熊木杏里の10年間は、どんな10年間でした?
熊木杏里:もう気持ちは先に行っちゃってる部分もあるんですけど、ふと10年ということで考えてみると…………ふふ。面白かったな!って。なんだかんだで心のまま音楽をやりながら“人・熊木杏里”を歌ってこられたことは、面白い10年だったと思います。
--また、ここからの10年間もいろんなことがあると思うけど、どんな未来を歩んでいきたいですか?
熊木杏里:10年やっても全然足りないことがいっぱいあるので。まだ出逢える人がいるだろうし、まだ出逢えるアーティストがいるだろうし、まだまだ一緒に音楽をやる人として交流できる部分もきっとあると思うから、そういうところにちゃんと参加できる自分でありたい。ただ、来年とか、これからどんなことが起きても多分後悔しないと思うんですよ。それはこのアルバム『光の通り道』が作れたから。いつも「ここで終わったら嫌だな」って思っていたけど、今は全力で生きたいなと思える自分を手に入れたし、それで今回のアルバムに辿り着けたので。だからこのまま生きてみようかなって。きっとまた面白い感じに歩んでいけそうな気がしています。
Interviewer:平賀哲雄
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