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T.O シングル『BURNING』インタビュー



T.O 『BURNING』 インタビュー

従業員400名の会社を経営する青年実業家がDJシーンに殴り込む理由とは?

この夏、Apple Musicを始めとする大手配信サービスにて初の音源となる「BURNING (feat. Priscilla Ventura & Daniel Bourget)」をリリースし、USENの週間リクエストチャートのポピュラー部門で1位を記録したDJ T.O

その素性は、都内4箇所にオフィスを構える従業員400名の企業の代表取締役を務める青年実業家というのだが、なぜそのような男がDJとして、音楽シーンに殴り込みをかけるのか。
生まれや音楽の目覚め、DJバトルに明け暮れた日々から時にバンドなどにも加入しながら、起業そしてこのたびのデビューに至るまでの壮大なプロフィールを語ってもらった。

聴く方はファンク、演奏する方はHIPHOPがスタート

▲YouTube「BURNING - T.O feat. Priscilla Ventura, Daniel Bourget」
▲YouTube「BURNING - T.O feat. Priscilla Ventura, Daniel Bourget」

--T.Oさんはそもそも、相模原市で生まれ育ったそうですね。

T.O:相模原市(中央区)淵野辺の方だったんですけど、当時ディスクユニオンの第1号店も淵野辺でしたよね。子どものころはラジオで洋楽を聴いていたんですけど、町田にタワーレコードができるまでは、新宿まで通ってレコードを買ってました。

--僕も同世代かつ相模原市淵野辺出身なのですが、当時はまだ流行りの音楽を得るには不自由がありましたよね?

T.O:うちは兄貴がDJだったんですよ。俺が高校生だった時にちょうど高校生DJが流行っていて、兄貴が「弟を高校生DJのチャンプにする」とか言い始めたことからDJを始めたんですけど(笑)。

ただ、音楽のスタートという意味では、俺はファンクでした。ジェームス・ブラウン、Pファンク、プリンスとかが大好きで、白人だったらグラム・ロック。ディヴィッド・ボウイとかロキシー・ミュージックとか。当時流行ってたHIPHOPはそれほどハマってなくて、こういう音楽もあるんだくらいに思ってたんですよ。だから聴く方はファンク、演奏する方はHIPHOPがスタートだったんですよね。

--当時の相模原では情報に限りを感じませんでしたか?

T.O:うちはテレビは禁止だったんだけどラジオは聴いてよかった。だからラジオばっかり聴いていたし、『FM fan』などの雑誌を買って情報を収集して、兄がCisco RecordsとかDMRとかに行って見つけてきたマニアックなHIPHOPを聴いたりミックスしたり……。相模原は広いところがいっぱいあるから、ガンガンに音を出していましたね(笑)。地元の友だち全員でターンテーブルを買って、どこのうちに遊びに行っても触れるようにして、そうなってくると何処へ遊びに行っても小さいコンテストみたいになるし、練習ばっかりしてましたね。

バンドの文化が合わない

T.O『BURNING』インタビュー

--そうやって腕を磨いていった。

T.O:やっぱりdj hondaさんの存在が大きくて、dj hondaさんがアメリカ大会で勝っていってデビューする姿に憧れていましたね。野球少年が野茂に自分の姿を重ねるように、俺はdj hondaさんに重ねてました。だから18歳の時に初めて東京の大会に出てボロ負けしてから23歳まではずーっと大会に出てましたし、1日6~8時間くらい練習してましたね。

中にはテレビやラジオの大会も出ましたけど、当時は優勝した人はほとんどがメジャーデビューできていたんです。勝ちさえすれば、自分の人生が変わる。ただ、勝てなかった。負ける理由もわかっていて、俺は本番になると緊張してダメなんです。テレビカメラなんか構えられるとガッチガチになっちゃって、針飛ばしまくっちゃう。

自分に足りないのは場馴れだと思って、クラブDJを演り始めるんでけど、俺はクラブがあんまり得意じゃない。あの巨大なスピーカーでスネアが鳴ると耳にきちゃうし、4つ打ちだと真面目にノッちゃってすぐバテちゃうんです(笑)。1時間なんて到底持たないっていうのもあって、バトルの方がメインだったんですよ。楽器としてのターンテーブルが好きだった。

--当時、曲は作っていたのでしょうか。

T.O:もちろん大会で勝ったらデビューできると思っていたからトラックは作っていたんだけど、なかなか大会で勝てない。で、23歳の時に場馴れするためもあってバンドに入ろうと思って。どうせならメジャーデビューに近い方が良いと思ってたんだけど、バンドに呼ばれてスタジオに行ったらオーディションをする、と。バンドの曲にセッションで合わせる形だったんだけど、こっちは毎日練習しかしてないから、どんな状況で何があっても合わせられる。もちろん合格して、それからメンバーとしてライブやったりイベントやったりしてたんだけど、今度はバンドの文化が合わないんだ。終わったら飲み会っていうのがね。

バンドがやりたいのか酒が飲みたいのか分からないような奴らだったし、ストイックにやろうという気が感じられなかった。 そこの文化が合わなった上に、バンドのフロントマンだったラッパーが俺と組んでやろうとし始めちゃったんだよね。俺がトラックメイクもDJもできるもんだから、「こいつと組んだらピンでデビューできる」と思っちゃったんだろうね。

--確かにそう思いますよね。

T.O:バンドは大手のメジャー・レーベルと契約寸前までになったんだけど、どこかでみんな決まってほしくなさそうな顔をしてるんだ。みんな自分の楽器の演奏に自信が無かったんだろうな。ラッパーの奴は自信を持ってたよ。大会に出ていた俺もね。今は大人だからそれが全てではないとわかるけど、練習を重ねている人間は自信があるよ。

そんな感じでバンドはメジャーデビュー目前でウロウロしてるし、そんな中でラッパーと組んでやり始めたら、それが原因で解散しちゃった(苦笑)。後は契約すればOKって状況だったし、そこで顔が売ることができれば、後は自分がコンポーザーとしてやっていけると思っていたんだけど、その計算がズレた。それが24~5歳くらいの頃ですね。

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世の中真剣にやっていれば上手くってわけじゃない

▲YouTube「BURNING CLUB MIX (feat. Priscilla Ventura & Daniel Bourget) LYRIC VIDEO」
▲YouTube「BURNING CLUB MIX (feat. Priscilla Ventura & Daniel Bourget) LYRIC VIDEO」

T.O:もうバンドは無くなったし、大会にも勝てない。やっぱり一番悔しかったのは大会で、自分の横にいた奴が勝って、デビューが決まっていくこと。生活が変わる。バイトもしなくてよくなるんだよ。朝起きなくていいし、希望がある。まあ、フタを開けてみたら2年で契約が切られたりとかすることもあるんだろうけど(笑)、当時はわからなかったからね。

世の中真剣にやっていれば上手くってわけじゃないのが身に染みたよ。打ち込めば打ち込むほどダメになるんじゃないかって気すらしてた。どれだけやっても勝てない。努力で100番以内に入れても、TOP10に入れる奴は才能だったり運だったり、別の何かを持ってる奴だって思い知った。こいつ自分より明確に巧いなって思う人とはあんまり会ったことがないんだけど、本番で力が出せるか出せないかが重要だってのはあるね。本当に負けたなと思った相手はひとりかふたりだったけど、彼らは結局日本や世界のチャンピオンにまでなったしね。

--その後も音楽制作は続けていたのでしょうか。

T.O:曲は21歳くらいから作り続けていたんですけど、当時はまだ自分の納得する曲が全然書けなかったんですよ。ただ、当時寮で同居していたミュージシャンの影響もあって、30歳くらいからピアノのスケールの勉強や練習をし始めると、曲が作れ始めてきた。納得できるメロディが書けるようになってきたんですよ。

当時はわからなかったけど、後にある先輩のアレンジャーの方から「伴奏のコードが安定していないと、右手のメロディが一定に聴こえない」って話を聞いて。きちんとしたハーモニーを保てていない和声は不安定でしかないから、ハーモニーを保っている状態でメロディを弾かないと安定しない。それを学んでから変わったかな。だから俺は、どちらかと言うと理論バリバリ派で、作り込んでる派なんです。

--そういった楽曲は、どこまで形にするのでしょうか。

T.O:日本人のヴォーカリストとも何回かレコーディングはしたんですけど、やっぱり僕が好きなのは洋楽だから、どうやっても合わない。最後は「声が気に食わない」ってレコーディングの途中で止めちゃったりとかして(笑)。そうして悩んだ末、もう好きなことをやろうと。どうせ苦しむんだったら、やりたいようにやった方が良いと思った。でも如何せん俺には外人の知り合いがいなかった。

18歳の頃から働いていて、26歳の時に会社を作った

T.O『BURNING』インタビュー

T.O:で、当時、俺は目黒に住んでいて仕事もしてたんだけど、その通勤ルートだった五反田のガード下でサックスを吹いてる黒人を見つけて話かけてみたんだよ。最初はわけわからない英語で説教されたんだけど、それから1週間後くらいかな。もう1回会ったら仕事をするって言い始めて、外国人同士のコミュニティから歌手をいっぱい連れてくるのよ。ただこれが凄くて、まず取り分は折半だと。で、レコーディングなのにギャラは交通費くらいしか払ってなくて、しかも曲が気に食わなかったら帰って良いって話になってた。だから彼の連れてくる歌手たちは会っても、口を利いてくれない。お前の曲を聴くまで、何も話さないって真面目に言ってくるんだよ。

--ある意味プロフェッショナルですね。

T.O:一緒にスタジオに入って曲をかけると、歌手の後ろに立っているさっきの黒人が「……ネクスト!……ネクスト!」って言ってくる。こいつが気に入るまで、どんどん曲をかけろと言ってくるんだよ。ほとんどが4小節とか8小節しか聴かない。要はその曲にグルーヴがあってノレれば良いわけで、気に入らなければ帰っちゃう。なかなかなプレッシャーの中でやらされるんだけど、面白いものでその時、自分の中で出来が良いと思っていた曲から選ばれていく。そうやって日本にいる外国人とレコーディングしていった。

他にも、ホテルで歌ってる外国人とかのライブが終わった後に話しかけてオファーして、そこからまたコミュニティが広げてきたりね。他にも、音楽の先生で凄く歌が巧い奴がいたんだけど、ビザが切れてたことを別れた彼女に密告されて強制送還されたりとか(笑)。

--その頃、すでにご自身の会社を立ち上げてますよね?

T.O:俺は18歳の頃から働いていて、26歳の時に会社を作ったね。で、その当時にニューヨークへ行って全レーベルやクラブを回ってデモテープを配ったんだけど、それだとトラベラーって扱いになっちゃうんだよね。だから向こうに基地が無きゃいけないと思って、今はロサンゼルスにも会社を持ってる。

日本でもビルボード・ライブへ行って、演奏後に喫煙所でタバコを吸っているメンバーやミュージシャンのサインをもらうフリをしてデモを渡してたよ。そうするとすぐに連絡先を教えてくれて、そのツテを頼りにニューヨークに行ったりしたけど、結局なかなかコネが作れなかったのが本音かな。一度バックストリート・ボーイズのボーカルが来た時もデモ渡してるし、チンギーのシークレットライブの時も、VIPルームで呑んでるのを見つけて何とか近づこうと思ったらSPにガッと止められたりとか。そんなのがしょっちゅうだったけど、結局なかなかコネが作れなかったのが本音かな。

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相模原の景色がNYやLAに変わる瞬間がある

▲YouTube「ラジオno.16 宣伝動画 ーブランコ編ー」
▲YouTube「ラジオno.16 宣伝動画 ーブランコ編ー」

--とはいえ、ものすごい行動力ですね。

T.O:だからその後は作る方に専念してましたね。納得できる曲を。1500円を握りしめてCDを買いに行っていた小中高の頃の俺が、俺の作る曲と好きだったプリンスの曲を比べた時に、勝てなくてもいいから、どっちを買うか悩むくらいの曲。……当時、俺の住んでいた16号沿いには娯楽なんて何も無かったし、ラジオで聴いただけで見たことがなかった、想像するしかなかった世界が見えてくる音楽じゃないと価値が無いと思ってる。

ガキの頃にさ、深夜2時くらい、友だちもみんな帰っちゃった後、16号のファミレス沿いを歩きながら音楽を聴いていると、工場ばっかりだった当時の相模原の景色がニューヨークやロサンゼルスに変わる瞬間がある。その思いを作れなければ価値が無いと思ってるから、違う場所に連れて行ってくれる曲じゃないと興味がないんだよね。

--なるほど。

T.O:でね、あるアレンジャーがサンディエゴに知り合いがいるってことで、現地でオーディションをやってみたんだけど、まあこれが下手くそばっかり集まっちゃって。シブいなあ……って思ってたんだけど、そのオーディションでエンジニアをやっていたのが、(この夏、T.Oとして発表した)「BURNING」に参加しているDaniel Bourgetなの(笑)。元々は歌手だったらしいんだけど、彼は日本人の血も入ってて、その後はサンディエゴで一番デカいスタジオでチーフ・エンジニアをやってたからめちゃくちゃコネがあったし、ラップも巧いもんだから連れてきてレコーディングをして出来たのが「BURNING」だった。

そこに元々avexでプロモーターをやっていた藤田さんをピースに加えて、そして今のこの場もある、と。だからデビューが遅いと思われるかもしれない。でもまあ、簡単には上手くいかないよね。仕事なら粛々とこなしていけるけど、音楽だと悩んで苦しんでばかり。もちろん上手く行かせたいと思ってますけどね。

日本の音楽シーンでは誰からも愛されてこなかった

T.O『BURNING』インタビュー

--400人の従業員を抱える大きな企業の代表を務める傍らで音楽を……と聞くと、普通は趣味や遊びの延長を想像すると思うんですよ。

T.O:音楽と違って、仕事は冷静に当たれる。だから会社はわりかし上手くいってるんだと思う。ただ、やっぱりミュージシャンは売れなきゃダメ。売れてなんぼ。売れれば才能があると認められる。確かにミュージシャン同士でわかるところはあるよ、才能や能力は。でも、やっぱり売れれば才能があると言われる。それがすべてだから、あんまりおためごかしで言わない方が良いと思う。もう綺麗事では……

--僕は音楽だけを切り出して聴くこともしますね。

T.O:ミュージシャンはもう、そうやって考えないのよ。

--はい。ただ僕が音楽を聴く側なので、作り手の人柄や地位も素性も関係なく、その音楽だけで判断をしていく。演奏の才能、歌う才能、構成する才能などは売れているか否かとは別のところにあると思います。

T.O:そうなのよ、わかる、わかるよ。それは正解なんだけど、自分の心ってなかなか整理がつかないからさ、売れたら才能があるって割り切っちゃう方が楽だし、健全な気がしない? 今の俺がそれを言っても負け犬の遠吠えになる。だから今、会社の経営者をやっているけど、その金を使ったり社員や知り合いに買わせたりはしていない。プロモーション施策を打つためにお金は使っているけれど、イメージとしては俺の曲を見出した弱小レーベルがあって、そこが予算をかけてる感じ。それが俺のプライドなのかもしれない。

--そう考えていくと、T.Oというアーティストのプロジェクトって壮大ですよね。

T.O:だって俺の夢はグラミーですもん。

--それって嘘や冗談じゃないですよね。

T.O:うん、嘘じゃない。アメリカはもちろん、UKにもオーストラリアにも、各国に洋楽はありますけど、日本発の洋楽が無い。他国なら例えばスペインならスペイン語と英語でそれぞれのバージョンを作るよね? だからT.Oは、日本発の洋楽をやろうと思ってます。日本の主言語は日本語だけど、二次言語として英語が通用する国でもあるから、英語圏のミュージシャンとして活動しようと思ってる。ダフト・パンクだってフランス人だけど英語で曲を作るよね。だから英語でやっていく。

じゃないと居場所が無いんだよ。この国に生まれて、この国の飯が好きだし、T.OのOは音楽、お笑い、女のOだから(笑)。俺、音楽は洋楽が好きだけど、海外の飯は合わないし、そもそも海外に憧れがまったくない。極東の島国に生まれ育った俺には馴染めないです(笑)。

ただ、音楽だけが日本に合わなかった。イメージとしてはアメコミ好きな漫画家って感じかな。日本の雑誌を見てもアメコミはまったくないよね? これはレーベルも一緒で、日本のレーベルにT.Oの曲を持ち込んでもけんもほろろ。今NACK5でラジオをやってるんだけど、ラジオリスナーとラジオ関係者にはウケが良い。それは嬉しいよね。この前、たまたま鳥取で「BURNING」がかかってたんだけど、その後、売れてたね。それに、ラジオでかかった後にTwitterとかで曲名がつぶやかれていたりするのも嬉しいし。T.Oは日本の音楽シーンでは誰からも愛されてこなかったから、それがこれからどう愛されていくのか、だよね。

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パラマウント・ピクチャーズが曲を気に入ってくれた

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--USENではリクエストの洋楽ポピュラーランキングにて、「BURNING」は2度1位を獲っています。

T.O:リスナーは受け入れてくれるんだけど、音楽関係者からはボロボロ(笑)。やっぱりメジャーはカテゴライズされたもの以外は見てくれない。受け手は理解しないって言われちゃうから。相当変わり者だったら違うかもしれないけど、ロックでもHIPHOPでもフォークでも、あるジャンルにハマると強いんだわ。でも、T.Oにはジャンルが無い。それはつらいよね。

--現在NACK5『手賀沼ジュンのウナンサッタリ・パンツ(p1)』内にて放送中の「NO.16」でパーソナリティを努めていますが、番組内では洋楽のヒット・ソングを聴きながら、その曲の構成や理論についてまで言及していて驚きました。

T.O:これからもひとりでも多くの人に聞いてもらいたいですね。2~3年前にパラマウント・ピクチャーズのお偉いさんが俺の曲を気に入ってくれて、スタジオでデモを聴かせてくれって、2か月後に渡米する予定だったんですよ。でも、その連絡をもらった次の日、散歩中に倒れてしまった。以来、寝ても1時半おきに目が覚めるようになっちゃって、腹も減らなくて飯が食えない。それで何軒か病院を回ってみたら、「これは遠足前の子どもと同じです。楽しみなことが待ち遠しすぎて、遠足前の子どもの状態が2か月続いているので、身体が持たないんですよ」って(笑)。

38歳くらいの時だったと思うんですけど、小学生の頃から数えて25年も経って夢が叶う。そんな状況を目の当たりにすると、人間って身体を壊すんだなって。極東の島国にある相模原は淵野辺に生まれた人間が、急にロサンゼルス、ハリウッドですよ? その後、色々あって、その話はボツになっちゃったんだけど。

そんな無責任な感じではいられない

T.O『BURNING』インタビュー

--もう一点、これまでのお話を聞いていて確信した部分もあるのですが、T.Oさんならもっと今の洋楽のトレンドに乗せた音楽も作れると思うのですが、「BURNING」はそういう音ではないですよね?

T.O:それには理由があって、まず「BURNING」を作ったのがけっこう前だったからちょっと古いんだよね。リリースするまでに時間がかかってるから、旬なサウンドだと終わっちゃう。「BURNING」では最近、ドラマのタイアップも取ったけど、そういうことをやっていると発表がどんどん遅れていく。今作っている物も発表するのは1年後とかになっちゃうから、ちょっと古くなっちゃうのはあると思う。

あと、メロディラインが濃い曲が多いっていうのも要因だと思っているんだけど、そこについてはけっこう論議してる。構成も含めて流行りに寄せる方がみんな好きかな~、と思いながらも、自分がやりたいのはメロディが強い音楽だから。俺はファンクとかR&Bとか普通の歌モノのアーティストだから、EDMの要素は入れてるしノレる曲も作れると思うんだけど、そこは凄い悩みだし、しょっちゅう仲間と論議している。だから、もしやるとしたらミックスを変えたバージョンを作ったりとかかな。

--では、今後T.Oとしてはどのように活動していくのでしょうか。

T.O:ストックは100曲くらいあるので、四半期に1回くらいリリースしようかなって思ってる。こういう考え方って経営者っぽいのかな?(笑)。当然さ、社長をやっていようがいまいが、関係なく評価して欲しいよ。芸能の世界なわけだからさ、そう考えたら二足のわらじとかはどうでもいいんだよね。ちなみに仮面をかぶってる理由は、会社にバレたくない、銀行にバレたくない、そして家族にバレたくない(笑)。誰も知らないんですよ。ノーバディノーズです。昔思ってたのは、メジャーデビューが決まったら、携帯をへし折ってネクタイを外してパソコンを川に投げ捨てて空港に向かいたかった。タクシーに乗って、「夢を叶えに成田まで」って言いたかった夢は今も持ってますよ。

--会社を経営するモチベーションは、すべて音楽?

T.O:会社は会社で社員の人生を背負ってるわけだから、そんな無責任な感じではいられないよ。世の社長さんたち同様に苦悩も多いし。だから会社と音楽は意識的に切り離していて、最近はなるべく、昔自分がしたかったこと、音楽を作ったりピアノの練習をしたかったから、それをするようにしてる。良く言えば初志貫徹。俺、売れたらやりたいことがあって、自分の意志でシャンパンを一気して酔い潰れたい。なんでかっていうと、俺は仕事で飲む機会が多かったんだけど、それは飲まされる酒だったから、仕事や付き合いで酔い潰れたことはあっても、本当に浮かれて気持ちよく飲んだことがないのよ。

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