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中村雅俊 『どこへ時が流れても/まだ僕にできることがあるだろう』インタビュー
「今この瞬間をどう生きるか」
中村雅俊、約1年ぶりのインタビュー敢行! デビュー曲にして大名曲「ふれあい」の作詞家でもある故・山川啓介氏について、全て手作りだった昭和~今の芸能界&音楽シーン、多くの襷を手に役者として歌手として生きてきた人生~その生き様を歌った新作『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』について等。ぜひご覧頂きたい。
芸能活動43年の始まり「ふれあい」作詞家の故・山川啓介への想い
--前作『ならば風と行け』リリースタイミング以来(http://bit.ly/2xjTBbb)約1年ぶりのインタビューになりますが、この1年は中村さんにとってどんな期間になりましたか?
中村雅俊:芸能活動43年、その前半と後半の仕事の仕方は変わってきていて、昔はドラマの撮影も1年かけてやっていたものですから、その1年のあいだに同時進行でコンサートも60本ぐらいやる。だから撮影の合間に「明日なんだっけ?」「コンサートです」「え、明日、コンサート?」みたいなやり取りがよくあったんです(笑)。でも今のドラマは1クールなので、撮影期間は大体4ヶ月ぐらい。その間は役者をやって、それ以外の期間は他のことが出来る。だからコンサートもツアーという形で集中してまとめて出来るんですよね。なので、精神的にラクになりましたし、この1年もスムーズに活動できていたと思います。--今日はドラマ撮影で、明日はコンサートみたいな状況で活動していた時期は、どうやってスウィッチを切り替えていたんですか?
中村雅俊:現場現場で瞬間的に「ここは歌手」「ここは役者」みたいな。夜行列車で移動したりしてね、今振り返るともうコンディション云々じゃないというか、本当に若さゆえに出来たことだと思います。よくやって来れたなって。それこそ『俺たちの旅』(※1975年の中村雅俊主演ドラマ)やっているときなんて、並行してアルバムを作ることになって夜中の12時からレコーディングしていましたからね。--喉が最も開きづらい時間帯ですね(笑)。
中村雅俊:それでも明け方まで歌って、そのまま撮影所に戻ったりする生活を約1ヶ月ぐらい続けたりしていました。本当にタフだったね。そういう時期に比べたら今は随分良い環境で仕事させてもらってますよ。あと、そんなこんなで43年とか、コンサート1500公演とか、そういう数字を耳にすると「よくやってきたな」と実感しますね。--その芸能活動43年の始まりとも言えるデビューシングル『ふれあい』(ドラマ『われら青春!』挿入歌)。同作を手掛けた作詞家・山川啓介さんがお亡くなりになりました。あの訃報を聞いたときはどんな気持ちになりました?
中村雅俊:しばらく会っていなかったことを悔いました。山川さんはまだ72歳だったし、そういう事態になるのはまだ先のことだと思っていたんですよね。自分がいろんな楽曲を出してきた中で、その節目節目で山川さんには詞を手掛けて頂いていたんです。なので、この先もそういう機会はあるんだろうなって。だから亡くなったときは、しばらく会っていなかったことを悔いましたね。「心の色」の作詞をしてくれた、お兄さんのようなお付き合いをしてくれていた大津あきらさんも20年前に亡くなり、作曲者の木森敏之さんもそれより前に亡くなりました。……亡くなってから悔しがるのはシャクなんですけどね。--中村雅俊さんにとって山川啓介さんはどんな存在だったんでしょう?
中村雅俊:俺より5,6歳上で、初めて会ったときは30前だったんですけど、まさに文学青年という印象で。すごく穏やかで、言葉選びもすごく丁寧で、俺とは違ったタイプの人だなと思ってね(笑)。素晴らしい詞を書いてくれて、眩しく見ていたんですよ。……惜しい人を失ってしまったなと思っています。--今、あの「ふれあい」の歌詞を振り返るとどんなことを感じます?
中村雅俊:そのときそのときで感じ方が違うんですけど、11月から始まるツアーで「ふれあい」を歌うときは“山川さんの死”というファクターを受けて表現は変わっていくと思います。また、2011年の震災のときに被災地で「ふれあい」を歌ったんですが、やっぱり「ひとはみな 一人では 生きてゆけない ものだから」という歌詞が突出して意味を持つようになったりとか、そういう出来事や環境の変化で解釈も変わっていくんですよね。なので、同じ歌詞をずっと歌っているという感覚ではなく、毎回歌う度に捉え方が変わっていく歌詞だなと感じています。--「ふれあい」の作曲家であるいずみたくさんも1992年に他界されていますし、そういう意味では生みの親を「ふれあい」は2人とも亡くしてしまった訳ですが、ゆえにこの先も大切に歌い届けていきたい。そういった気持ちも強かったりしますか?
中村雅俊:そうですね。歌は生まれた瞬間から“運命”とか“使命”みたいなものを持っているし、生みの親が亡くなっても一人歩きしていく独立心も持っているし、いろんな形で受け取られていくものでもあるし、だから歌というものは凄い力を持っている。古い歌になって終わっていくかと思いきや、ある瞬間にいきなりバッと目を覚まして途轍もない力を発揮して、人に影響を与えたりするんですよね。僕は元々役者なので、そういう歌を伝道師として届けて来れたことには物凄く感謝していますし、誇りでもあります。- 黒澤明さんの現場なんて「あの木、邪魔」と言われたら切るしかなかった(笑)
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Interviewer:平賀哲雄|Photo:Jumpei Yamada
黒澤明さんの現場なんて「あの木、邪魔」と言われたら切るしかなかった(笑)
--「ふれあい」など名曲の数々が生まれた昭和。中村雅俊さんが歌手として俳優として生きてきた昭和は、どんな時代だったなと思いますか?
中村雅俊:手作り感があったよね。そこに何かが用意されている訳ではなくて、自分が動かないと何も出来ない。自動というものがなかったから、すべてが手動。スウィッチひとつで何かが出来ることなんてなくて、自分たちの手で実際に大変な思いをして作る。だからこそ充実感もある。そういう手作り感がいっぱいありました。それがだんだん「古くさい」とか「時代遅れ」とか言われるようになったけど、でもそこを通ってきた人達には“実感”があるよね。生活も文化もすべてにおいて回り道して、言ってしまえば無駄なことをやってきた。今は無駄がないようにすべてが出来ているけど、無駄いっぱいの時代だったんで、それが実は人生に彩りを与えていたんだよね。だから回り道や寄り道って決して悪いことじゃなくて、松下幸之助さんも「失敗した時点で終わったらそれは失敗だけど、成功するまで続ければ失敗じゃないんだ」みたいなことを仰っていましたけど、そういう意味では生きている“実感”が得られやすい時代だったんじゃないかな。--音楽も今パソコンひとつあれば何でも出来ますけど、昭和はひとつひとつの音を自分で鳴らして作っていくしかなかったですからね。
中村雅俊:本当にそうだったんですよ。今はアレンジメントソフトとかあってすぐ“○○風”な曲を作ってくれますからね。あんなの40年前には考えられなかったですよ。だから欲しい音があったら、その音を鳴らせる人になるか、鳴らせる人を探すしかなかった。今の環境からすると「無駄な時間」と思われちゃうかもしれないけど、それゆえの達成感もあったし、リスナーも今は簡単に楽曲のコピーとか出来ちゃうけど、当時はラジオの音をカセットテープにダビングして聴いていた訳ですから。今の若い人は「なんですか、それ?」と思いますよね(笑)。でもまぁ良き時代ですよね。--映像もCGのようなテクノロジーはない訳で、電信柱が邪魔だったら「あの電信柱、抜いて来い」と本気で言っていた時代ですよね。
中村雅俊:そうですよ。黒澤明さんの現場なんて「あの木、邪魔だから」と言われたら、今みたいに編集ソフトないから切るしかなかったんですよ(笑)。でもそこまで手作業でやっていたから「やりきったなぁ!」とみんなで格別な想いを共有することが出来たりね。凄い大変な思いをしてみんなで創り上げたワンカットというのは、映像で観たときに凄い力を持っているんです。CGでは出せない真実味がそこに溢れる。訴えてくるものが違うんですよ。それは映像や音楽の世界に限らず、クリエイティヴな仕事全般に絶対的に言えることなので、そういう意味でもすごく良い時代だったと思いますよ。--その時代を駆け抜け、平成、21世紀と迎えていく中で、芸能の世界や音楽シーンはどう変わっていったと思いますか?
中村雅俊:すべてにおいて便利にはなりましたよね。無駄がない。でもクリエイティヴというものは本来無駄の積み重ねみたいなもので成立している。ネットで検索してパッと情報を得るものより、やっぱり自分の足で人を訪ねて話を聞いたものの方が自分の身になる。ただ、便利な時代の良さもあると思うんです。人生は限られているので「これに対してそんなに時間を注がなくてもいいだろう」というものはあるんでね、昭和にはなかった“時短”という言葉。これの必要性は分かります。でもそれによって“残さなきゃいけないもの”までが一緒に削られていたりするので、そこは残念かな。--それまで正しかったものが正しくなくなったり、何かを作る上での優先順位が変わっていったりする、その変化に合わせる大変さは半端じゃないですよね。
中村雅俊:そうなんだよね。昭和の物差しと平成の物差しはやっぱり違うので、いつまでも昭和の物差しで良し悪しを判断しちゃうのは良くないかもしれないし。でも「じゃあ、どうしたらいいのか?」と言ったら、それはその人その人の生き方があるからね。「俺は曲げない!」と言う人もいるし、「郷に入っては郷に従え」と言う人もいるだろうし、時代が変わったら「じゃあ、俺はちょっと……」と言う人もいるだろうし、その生き方は否定できない。俺の場合はどこかで合わせている部分もあるし、合わせていない部分もあるし、それが俺の生き方だと思っています。--どんなに時代が変わろうとも中村雅俊は歩みを止めませんでしたよね。やりづらさを感じることだってあったと思うんですが、それでもこの世界で戦い続けてやろうと思えた要因は何だったんでしょう?
中村雅俊:求められているから。それはこの世界でなくても、例えば学校のクラスの中でもそうだけど、自分で「俺って居ても居なくてもいいんだよな」と存在感を捨ててしまったら、その時点でもう負けだと思う。自分の存在感は自分で作っていく。他力本願じゃなくて、自分で自分の存在の意味を作らなきゃいけないし、ましてや俺たちの職業になると求められないと成立しないんでね。人気があるかどうかもそうだけど、制作側の人間が「中村を使ってやろう」と求めてくれなきゃ話にならない。でもそうやって俺の存在を求めてもらえたからこそ、ずっと歩き続けて来れたんだと思います。コンサートもお客さんが来てくれたんで、求めてくれたんで、1500回近くもやることが出来た。お客さんが来なかったら絶対に成立しないですからね。そういう意味では、43年というのは長かったのか短かったのか分からないですけど、それだけの年数求められて来たんだなと思います。リリース情報
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Interviewer:平賀哲雄|Photo:Jumpei Yamada
随分と託されたタスキはあります。それが「頑張ろう」という気持ちにも繋がる
--最近は流行り廃りの速度も尋常じゃないですし、昨日の主役が数週間後には忘れられているような時代でもあります。ゆえにデビューしてもすぐ諦めてしまったり、心折れてしまったり、この世界で活動し続けられない人が年々多くなっている印象を受けます。この状況に対して中村雅俊さんはどんなことを感じたりしますか?
中村雅俊:よく英語で「Easy Come, Easy Go」と言いますけど、簡単に得たものは簡単に出て行くんだよね。だから人気も急にワッと湧いた場合はすぐ消えちゃうことが多い。やっぱり苦労して自分のポジションを得た人はいきなり「いらない」とはまずならない。やっぱり時間をかけて得たものというものは簡単には失われない。もちろんいきなりバッと売れてそのまま人気が衰えない人もいますよ。でもそういう人は凄まじい努力をしているだろうし、出逢いを大事にしている。あとは運命もありますからね、新人の方々に「こうしたらスターになれる」というマニュアルを渡したりは出来ないし、とてもとても難しいところはあるんですけど……--今の話を聞いていると、そこから突出するのは大変そうですね。
中村雅俊:そうね。でもその人の持っている才能と出逢いですよね。ちょうど合う作品と出逢えるかどうか。ハマり役とか曲とか。当時の自分も含めた若い俳優ってほとんどの人がレコードを出していて、ちょっと目立つ俳優がいるとレコード会社が「出しましょう」と言ってきていた時代だったんですけど、俺なんて本当にラッキーで、デビューで「ふれあい」といきなり出逢えましたからね。あれがもし売れてなかったら第二弾があったかどうか分からなかった。やっぱり「ふれあい」じゃなかったら人生違っていたんだろうなぁ……。--そう考えると「ふれあい」の存在は凄いですよね。
中村雅俊:俺の知り合いがね、孫のことが大好きで、何をするにも孫が一番なんですよ。その人が「大好きな孫がいる。ということを第一に考えると、自分の過去の出来事はすべて肯定しないといけない。何かひとつでも違っていたらこの孫は居なかったんだよ」と言っていて。たしかにそう考えると「今までのことはすべて正しかったんだ」と前向きに捉えることが出来るし、自分もそうだなと思って。今までの66年間の出来事、それが積み木なのかジグソーパズルなのか分からないけど、全部正しかったんだと。今を良しとするならばね。--そんな中村雅俊の生き様が集約されていると言っても過言ではない、今回のニューシングル『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』。まず「どこへ時が流れても」は今日のインタビューで話してくれたことにも通ずる楽曲ですが、自身ではどんな印象を持たれていますか?
中村雅俊:ここのところずっと“作詞:松井五郎/作曲:都志見隆”というコンビが続いているんですけど、俺以上にふたりの意気込みが凄いんですよ。だから今回もすごく積極的にふたりとも動いてくれて、いろんな意見も言ってくれて、例えば「こういう流れじゃなくて、こういうアプローチの曲があっても良いんじゃないか」とかね。それで自ら詞も曲も提供してくれたりして、すごく“チーム中村”みたいな感じになってやってくれているんです。レコーディングも都志見さんが全部立ち会ってくれて、その傍らで松井さんがずっと聴いていて。だから今回はいつにも増して感謝の気持ちが大きいです。--その“チーム中村”の熱量の高さは楽曲にも表れていますし、松井さんが綴った「人は人で生まれたんじゃない 人になるため生まれたんだろう」というフレーズも強烈です。
中村雅俊:以前「ただ海が見たかった」という楽曲をリリースしていて、その歌詞にも「男で生まれたのに 男で死ぬのはむずかしい」というフレーズがあるんだけど自分たちはただ単に生まれてきた訳じゃなくて、それぞれに目指すものがあって、使命とか運命を持って生きている。今回はわりと年配の人たちへ向けたメッセージソングになっているんだけど、何が伝えたかったと言ったら「今を生きる」という意思を持って生きるということ。「今この瞬間をどう生きるか」というテーマを持って生きてみてはどうだろう。そう思って歌っています。実際に俺自身も「今日一日、今この瞬間がとても大事だな」と思って生きているので、歌っていてすごく伝えやすい。--「まだ僕にできることがあるだろう」にはどんな想いを込めて歌われましたか?
中村雅俊:いろんなことがあるけど、そうやって時は過ぎてきたけど、これからも頑張っていこうよ!というわりと大雑把な感覚なんだけど、それでみんなを元気付けていくようなイメージ。雑というか、ラフなポジティブさが気持ち良い曲だと思います。酒場で語り合っているテンションかもしれないね。「俺はこうするぞ!」といった決意じゃなくて「まだ僕にできることがあるだろう」というね、ちょっとハッキリしない感じ。でもポジティブな感じ。--前半の話とリンクしますが、どんどん託されるタスキの量が増えていく訳じゃないですか。そういう人生を歩んでいる今の中村雅俊さんが『どこへ時が流れても / まだ僕にできることがあるだろう』のような作品を歌うのは感慨深いです。
中村雅俊:なるほどね。言われた通り、託されている感じはありますよ。山川さんもいずみたくさんも大津さんもね、亡くなってしまった。でも別れの度に「あとは任せて!」という気持ちになるんでね、そういう意味では随分と託されたタスキはあります。それが「頑張ろう」という気持ちにも繋がっている。コンサートでも何でも長くやっていると、やっていること自体があたりまえになっちゃって、例えば「10年ぶりにコンサート!」と言ったほうが話題になるのも分かっているんですけど(笑)、でも俺は毎年地味であっても、ずっとコンサートを続けている。その原動力にもなりますよね。で、皆さんにはそうして歌い続けている中村雅俊に目を注いでもらいたいなと思います。同世代や少し下の世代はずっと俺の活動を見てくれていると思うんだけど、若い人にとっては「長くやっている人でしょ?」ぐらいのイメージだと思うんですよ。でもそういう若い人とも出逢いがあったらいいなと思うし、中村雅俊の歌を聴いてもらいたいなと思いますね。Interviewer:平賀哲雄
Photo:Jumpei Yamada
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Interviewer:平賀哲雄|Photo:Jumpei Yamada
どこへ時が流れても/まだ僕にできることがあるだろう
2017/09/13 RELEASE
COZA-1369/70 ¥ 2,750(税込)
Disc01
- 01.どこへ時が流れても
- 02.まだ僕にできることがあるだろう
- 03.どこへ時が流れても (オリジナル・カラオケ)
- 04.まだ僕にできることがあるだろう (オリジナル・カラオケ)
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