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The Day The Music Died~1959年2月3日、音楽が死んだ日
1959年2月3日、アメリカ・アイオワ州のクリアレイク近郊に小型チャーター機が墜落した。そこには、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、J.P."ビッグ・ボッパー”リチャードソンという、3人の才能溢れるミュージシャンが搭乗していた。音楽史に残るこの悲劇は、1971年に全米No.1ヒットを記録したドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」で“The Day the Music Died(音楽が死んだ日)”と歌われて以降、広くその呼び名が定着している。彼らの残した音楽遺産とそれらが以降の音楽シーンにもたらした影響を振り返ってみたい。
Buddy Holly / バディ・ホリー
1936年9月7日、アメリカ・テキサス州生まれ。幼い頃からカントリー・ミュージックに親しみ、エルヴィス・プレスリーに憧れてロックンロールをはじめた天才青年は、事故当時まだ22歳という若さだった…白人かつ黒縁メガネ&スーツというスノッブないで立ちで独創的なロックンロールを奏で、一世を風靡したバディ・ホリー。そのルックスと音楽の相反するイメージから、ブラック・ミュージックの殿堂アポロ・シアターのプロモーターが、デモ音源を聴いて黒人であると思い込み出演を依頼、当日会場に姿を現したホリーを見て慌てたという逸話もあるほど。
▲ 「That'll Be The Day (Live on The Ed Sullivan Show)」 / Buddy Holly & His Crickets
ホリーは、1956年にソロ・アーティストとしてデビューを果たし、翌57年2月、自身のバンドとなるクリケッツを率いて発表した「ザットル・ビー・ザ・デイ」で初の全米ビルボードNo.1を獲得。一気に音楽シーンに頭角をあらわし、続いて「ペギー・スー」(全米3位)、「オー・ボーイ!」(全米10位)と、立て続けにヒットを連発し、瞬く間にスターダムにのし上がった。「ザットル・ビー・ザ・デイ」の大ヒットから事故で命を落とすまで、わずか2年という短い活躍期間ながら、のちのミュージシャンたちに絶大な影響を与え、ロックの礎を築いた功労者として1986年にロックの殿堂入りも果たしているホリー。バディ・ホリー&クリケッツによるギター2本、ベース、ドラムという編成は、今でこそロックバンドの基本的なスタイルだが、ビッグバンドが主流だった当時のシーンにおいてはまれなこと。その理由は単純に“お金がなかったから”だというが、そこから繰り出されるシンプルでストレートなコード進行は、60年代のロック・ミュージシャンたちの憧れとなり、やがてスタンダードとして定着するようになる。また、今やロック/ブルース・ギタリストの定番であるフェンダー・ストラトキャスターを使用するスタイルも、当時としては斬新であり、ホリーの墓石にもストラトキャスターが刻まれている。
▲ 「Words Of Love」 / The Beatles
ホリーに影響を受けたミュージシャンの筆頭として挙げられるのがビートルズやストーンズなど、60年代に英国から飛び出したバンド勢である。なかでもビートルズは前身バンドのクオリーメン時代からホリーの楽曲をレパートリーとしており、初のレコーディングで「ザットル・ビー・ザ・デイ」をカバー、ビートルズ時代にもホリーの「ワーズ・オブ・ラヴ」をカバーしている。彼らが受けた影響は音楽面だけでなく、そもそもビートルズというバンド名もクリケッツにならい「2つの意味を持つ昆虫」に由来した造語である。さらに、ジョン・レノンは“メガネのロックンローラー”だったホリーのおかげで、メガネをかけていることへの抵抗がなくなったと話し、一方ポールはホリーの死後に彼の版権を所持するなど、そのエピソードを挙げればきりがない。
また、ローリング・ストーンズは3枚目のシングルとなったホリーのカバー「ノット・フェイド・アウェイ」でバンドとして初の全英TOP10入りとなる3位を記録し、それ以降、怒濤の全英NO.1ラッシュを記録、世界を熱狂させるロック・バンドへと成長していった。英国バンド勢だけでなく、ビーチ・ボーイズやグレイトフル・デッドなどアメリカを代表するロック・バンドの面々もまた、当然のようにホリーに影響を受け、カバー楽曲を自身の作品に収録している。そして、ホリーの死から30年以上が経過した90年代に入っても、オルタナティヴ・ロック・バンドのウィーザーがホリーの57回目の誕生日となる1993年9月7日に「バディ・ホリー」というタイトルのオマージュ曲をリリースし、大ヒットさせている。
さらにホリーの75回目の誕生日となる2011年には、ポール・マッカートニーの呼びかけによりトリビュート・アルバム『レイヴ・オン・バディ・ホリー~バディ・ホリーへ捧ぐ』が制作され、ポールやパティ・スミス、ルー・リード、グラハム・ナッシュ、ニック・ロウなどのベテラン勢はもちろん、ブラック・キーズ、フローレンス・アンド・ザ・マシーン、マイ・モーニング・ジャケット、シー&ヒムなど、現在のシーンを牽引するアーティストが参加した。こうしてホリーの残した音楽は、彼を敬愛するミュージシャンたちによって歌い継がれ、時代を超えて今もなお愛され続けているのだ。
Ritchie Valens / リッチー・ヴァレンス
たとえその名前に聞き覚えがない人でも、彼が世界的に大ヒットさせた名曲はきっと口ずさむことができるだろう…メキシコの伝統的な楽曲をロックンロール調にアレンジした「ラ・バンバ」をアメリカで大ヒットさせたリッチー・ヴァレンスもまた、17歳という若さで還らぬ人となってしまった。
▲ 「Come On Let's Go」 / Richie Valens
メキシコ系アメリカ人の両親のもと、ロサンゼルス郊外に生まれたヴァレンスは、幼少時代からR&Bやブルース、そしてメキシカン・ミュージックを聴いて育ち、早くからギターを覚えバンド活動をおこなうようになった。17歳目前となる1958年の夏、地元でのライブがハリウッドのレーベル[デル・ファイ・レコード]の創始者であるボブ・キーンの目にとまり、すぐさま彼のもとでレコーディングを敢行する。デビュー曲「カモン・レッツ・ゴー」は、全米42位にチャートインと無名の新人にしてはまずまずの結果を残し、同年12月にはバラード曲「ドナ」をリリース。これが初の全米TOP10入りを果たす。このとき「ドナ」のB面に収録されたのが、「ラ・バンバ」だった。
リリースから2か月が過ぎてもなお「ドナ」はチャートTOP3圏内にとどまるロング・ヒットを記録し、まさに音楽シーンにおいて“時の人”になろうとしていた最中、あの忌まわしき事故に巻き込まれることになった…ヴァレンスの衝撃的な死を受け、「ドナ」はこれまでの最高位となる2位を記録、翌3月にはファースト・アルバムにして遺作となった『リッチー・ヴァレンス』がリリースされ、全米ビルボードのアルバムチャート23位を記録している。その後、未発表音源を集めたアルバムがもう1枚リリースされたが、初のレコーディングから事故までの期間はわずか8か月、当然、残された音源はあまりにも少ない。メキシコで300年以上前から歌われていた民族音楽をロックンロール調にアレンジした「ラ・バンバ」は、残された音源のうち、チカーノ(メキシコ系アメリカ人)である彼を象徴する曲としてラジオを中心に繰り返しオンエアされ、結果的に全米ビルボード22位まで上昇、スペイン語で歌われた楽曲として初の全米ヒットを記録する。これによりヴァレンスの存在は、50年代ロックンロールの象徴というだけでなく、チカーノ・ロック/ラテン・ロックの先駆者として、のちのミュージシャンに多くの影響を与えることになった。
ラテン・ロックの雄、カルロス・サンタナもその一人だ。1987年に公開されたリッチー・ヴァレンスの伝記映画『ラ★バンバ』では、サンタナが音楽監督を務め、ヴァレンスと同じくアメリカ系メキシコ人メンバーによるロック・バンド、ロス・ロボスが音楽を担当した。このとき、映画の主題歌としてロス・ロボスが歌った「ラ・バンバ」が、全米ビルボードNo.1の大ヒットを記録する。ロス・ロボスによる「ラ・バンバ」は、ヴァレンスのものよりさらにロック色の強いものとなっているが、ほかにも数えきれないほど多くのカバーが存在している。日本においても、60年代には金井克子が、80年代には菅原洋一がそれぞれNHK紅白歌合戦で「ラ・バンバ」を披露し、また、2000年代にはミクスチャー・バンドのDragon Ashが日本語でカバー、同曲がCMにも起用されるなど、長きにわたりお茶の間に親しまれている。
J.P."ビッグ・ボッパー” リチャードソン / J.P “Big Bopper” Richardson
▲ 「Chantilly Lace」 / Chantilly Lace
そして、“音楽が死んだ日”の最後の登場人物となるのが、米・テキサスの人気ラジオDJからレコード・デビューという異例の経歴を持つ“ビッグ・ボッパー”ことジャイルス・ペリー・リチャードソンだ。陽気なキャラクターとその芸名の由来となる130kgを超える大きな体がトレードマークのロッカーもまた、突然そのキャリアを閉ざされる運命となってしまった。事故の前年となる1958年夏に発表した「シャーリーズ・レース」が、22週にわたってTOP40にチャートインするロング・ヒットを記録し、一躍“時の人”となったボッパーは、ホリー、ヴァレンスとともに3週間かけてアメリカ合衆国中西部24都市をまわるツアー『ウィンター・ダンス・パーティー』の一員となった。このツアーは当初、バスでの長距離移動を余儀なくされ、それは負傷によりツアーから離脱せざるを得なくなったメンバーもいるほど劣悪な環境だったという。体の大きなボッパーにとって、当然このバス移動による負担は人一倍大きかったのだろう。彼はツアー中、風邪をこじらせていたという。ホリーの提案により手配された小型チャーター機には、パイロットのほかに3名分の座席が用意されていた。彼は当初、このチャーター機に乗る予定ではなかったが、体調不良を理由にホリーのバンド・メンバーにその権利を譲ってもらったという。それが結果的に運命のわかれ道となるとは、当然、知るよしもなく…
▲ 「Running Bear」 / Johnny Preston
享年28歳。ホリーやヴァレンスにくらべれば少々“ベテラン”ではあったが、彼のキャリアはまだまだこれからだったはずだ。生前プロデュースを手がけていたジョニー・プレストンが、“音楽が死んだ日”の約半年後、ボッパー作詞作曲による「悲しきインディアン(Running Bear)」でデビューを果たし、全米No.1を獲得している。同曲は69年にカントリー歌手のソニー・ジェイムスにもカバーされ、全米のほか、カナダのカントリーチャートでも首位となるヒットを記録したほか、70年代にはビーチ・ボーイズもカバー、また、日本でも平尾昌章、森山加代子らがカバーしている。また、ボッパーの残した最初にして最大のヒット曲「シャーリーズ・レース」は、1972年に「火の玉ロック」などで知られる50年代R&Rの最重要人物、ジェリー・リー・ルイスによって歌われ、こちらも全米ビルボードのカントリーチャートにおいて3週連続No.1のヒットを記録している。もし、彼のキャリアが続いていたのなら、ラジオDJ、シンガー、そして、ソングライターにプロデューサーとさらにマルチな才能を発揮していたに違いないと、つい「たら・れば」の話をしたくなってしまう。
Text: 多田 愛子
バディ・ホリー・ストーリー
2015/07/22 RELEASE
UICY-77346 ¥ 1,944(税込)
Disc01
- 01.レイニング・イン・マイ・ハート (MONO)
- 02.アーリー・イン・ザ・モーニング (MONO)
- 03.ペギー・スー (MONO)
- 04.メイビー・ベイビー (MONO)
- 05.エヴリデイ (MONO)
- 06.レイヴ・オン (MONO)
- 07.ザットル・ビー・ザ・デイ (MONO)
- 08.ハートビート (MONO)
- 09.シンク・イット・オーヴァー (MONO)
- 10.オー・ボーイ! (MONO)
- 11.イッツ・ソー・イージー (MONO)
- 12.イット・ダズント・マター・エニモア
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