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楽園おんがく Vol.25: よなは徹 インタビュー
旅と音楽をこよなく愛する、沖縄在住ライター 栗本 斉による連載企画。第25回は、古典音楽からウチナーポップまでを行き来し、新しい沖縄音楽を追究し続ける、よなは徹のインタビューをお届け!
沖縄民謡とポップスの融合は、ずいぶん前から行われてきた。しかし、本格的な民謡のベースを持ち、確固たる世界観を持って表現しているアーティストはそれほど多くはない。そういった新しい沖縄音楽を追究する現代の第一人者といえば、必ず名前が挙がってくるのが、よなは徹だろう。民謡はもちろん琉球古典音楽も含めたルーツ音楽の基礎を徹底的に叩き込み、その上で親しみやすいバンド・サウンドを披露してくれる。実際、彼の音楽は沖縄に留まらず、全国的に人気を得ているのも納得だ。
オリジナル・アルバムとして8年ぶりとなる最新作『子の方(ninufa) -Polaris-』は、そんな彼の集大成であり、新たなスタートでもある。島うたからポップス、エイサーにいたるまで様々なタイプの楽曲があり、「満月の夕」のカヴァーも収められた力作だ。伝統と革新が見事にミックスされた音楽は、どのようにして形成されていったのか。ここでは、古典音楽からウチナーポップまでを行き来する希有な音楽家、よなは徹の音楽世界に迫ってみた。
島うたなんてオジイやオバアの音楽だと
言われていたんですよ
??1976年に沖縄の北谷町(ちゃたんちょう)のお生まれだそうですが、当時の北谷ってどんな感じだったんですか。
よなは徹:いや、もう田舎です(笑)。今栄えているオシャレなエリアはもともと海だったので、僕が生まれた頃はほんとに何もなかったんです。僕が生まれ育ったのは謝苅(じゃあがる)という山の方で、エイサーが発展したところなんですよ。6月くらいから太鼓の音が流れてくると、お盆が恋しいと思いますね。あと、夕方になると当たり前のように三線の音色が聞こえてきました。今は苦情が来るらしいですけど(笑)。
??じゃあ物心ついた頃には、三線やエイサーは身体に染みこんでいたわけですね。
よなは徹:そうですね。もう日常生活の中にありましたから。だから、僕の同級生なんかも、上手い下手はともかく、当たり前のように三線を弾けるんですよ。
??よなはさんも、小さい頃から三線を弾いていたんですか。
よなは徹:3歳からです。親父が昔、民謡歌手だったということもあって。ただ、僕は当時、人前ではほとんど弾いていません。なぜなら、三線なんて年寄りがやるものだと思っていたから。バンド・ブームの頃は、島うたなんてオジイやオバアの音楽だと言われていたんですよ。そんなレッテルを貼られたコンプレックスは、いまだに取れない。
??じゃあ、人前ではいつ頃から弾いていたんですか。
よなは徹:小学校の発表会で「三線をやろう!」って話になって、同級生のひとりが三線を持ち出して弾いたんです。僕はそれまで隠していたんですけど、「実は俺も弾けるよ」ってことで、彼と一緒に遊びながら弾き始めました。
??ということは、小学生でついにお披露目したわけですね。
よなは徹:そうです。そしたら、先輩の松田弘一師匠という三線弾きがいるんですけど、彼が僕らを呼んでいろんなステージに引っ張っていってくれたんです。土日のたびに結婚式や宴会に呼ばれて弾きました。当時はお祝いなどいっぱいあって、一回やれば5千円くらいもらえるわけですよ。だから、小学生なのに月に5,6万円くらいは稼いでいましたよ(笑)。でもね、僕らが歌うとそこにいるお年寄りがみんな笑うんです。なんでだろうと思っていたら、歌わされていたのが、全部下ネタの歌詞だったわけです(笑)。ウチナーグチ(沖縄語)をわからない小学生に歌わせていたんですよね。
??中学生の多感な時期も、民謡は歌っていたんですか。
よなは徹:その友達とコンビを組んでいたのは小学校までで、中学に入ると変声期も迎えてしまったからほとんど歌わなかったですね。実はその頃、三線だけでなく琉球舞踊もやってたんですよ。こっちはもっと隠してました。女性がやるものだと思われていたから。だから、同級生でも踊りまでもやってるのはほとんどいなかったんじゃないかな。こっちも3歳からやっていて舞台も踏んでいたから、民謡以外にも自然に興味を持ち始めて、高校に入ってからいわゆる琉球古典音楽を習い始めるんです。
??民謡からさらに踏み込んだわけですね。
よなは徹:そう。沖縄県立芸術大学というのがあるんですが、そこで古典音楽を勉強しようと思ったんです。それでそのまま勉強して、20歳の時に古典音楽の教師免許を取りました。当時、その免許を取った最年少だったと思います。芸大ではいろんな名のある先生に手ほどきを受けました。
??専攻はなんの楽器だったんですか。
よなは徹:メインが三線で、副楽器が太鼓でした。そのときに出会った太鼓の先生が、島袋光史先生という人間国宝の方。2年間、バチの持ち方から学びました。その島袋先生の一番弟子にあたるのが喜舎場盛勝先生で、その喜舎場先生の教室にも通い始めました。そうすると、いろんな仕事が来始めたんですよ。先生が有名だったら仕事が来るっていうのは本当なんだなと、そのとき実感しました。地域の同好会じゃいくら頑張っても大きいステージに出られない。師匠の名前が通ってないと、国立劇場のような大舞台には立てないんです。
??世襲制みたいなものですか。
よなは徹:それに近いかも知れませんね。僕は三線の先生について師範まで取ったし、教室も持ってそこから先生になった人も何人かいるんですけれど、古典音楽として三線を弾いて大きなステージを踏ませてもらうことはほとんどない。民謡やポップス系ではいろんなステージに出たんですけど、古典だと去年初めて国立劇場に出たという程度。そんなこともあって、人と同じことをしていたら仕事が来ないんだと感じ始めました。なにか変わったことをやると目立つんですよね。ただ、それをやるにはもっと基礎を勉強しないといけないなと思ったんです。
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Interviewer: 栗本 斉
日本の伝統芸能と一緒にやると、
基本の大切さはもちろんですが、
舞台に対する心構えを再認識させられました
??大学を卒業してからは、どうされたんですか。
よなは徹:北谷町役場で臨時職員として働いていたんです。古典芸能をやってる人って、他の仕事をしている人がほとんど。「仕事する時間があれば稽古しなさい!」と言いたいところなんですけど、現状これだけで食べていくのは沖縄では無理なんです。で、役場の仕事をしているときは、レコーディングの仕事が結構入ったんですよ。レコーディングって一曲いくらという世界なんですけど、10曲やれば10万じゃないですか。だからレコーディングの仕事っていいなと思ったんです(笑)。
??たしかに美味しい仕事ですね(笑)。
よなは徹:当時の師匠が、「レコーディングというのは一発録音でやるべきで、何回もやる人は向いていない」と言っていて。一回で終わらせることを徹底的に仕込まれたので、今でも時間をかけないです。そうこうしていると、サミットの仕事をもらって北米に一ヶ月行くことになって、仕事を辞めたんです。そうしたら就職口もないから、帰国後はそれまでにもレコーディングの仕事をしていたキャンパス・レコード(沖縄市にあるレーベル)に勤めることになり、CD制作に関わっていくんです。伴奏や作曲もやってたんですが、そのうち他人のものばかりやっててもしょうがないということになって、キャンパスの社長から「自分のCDを作れ」っていわれて、いよいよ2001年にアルバムを出すんです。
??それがファースト・アルバムの『よざれ節』ですね。
よなは徹:この作品は、数曲を除いて全部自分で演奏しています。歌、三線、琴、笛、太鼓まで。でも、やってみて思ったのは、とても寂しいってこと(笑)。そうこうしているうちに、物産展なんかの仕事も来てライヴをやるようになるんですが、ソロよりもバンドでコード楽器が入っている方が、県外では受けるんです。
??たしかにその方が聴きやすいかもしれません。
よなは徹:昔から民謡はダサいものだというコンプレックスを持っていたこともあって、その頃出会ったパーシャクラブの上地正昭さんに僕の曲をコード・アレンジしてもらって、バンドで演奏できるようにしました。そのバンドができたのが、2002年頃。とても楽しくて、嬉しかったですね。僕は五線譜も読めないし、ギターもキーボードも弾けないから。
??思春期の頃とか、ギターに憧れたことはなかったんですか。
よなは徹:憧れましたよ。でも、持ってないし、手に入れてもどうやって弾いたらいいかわからないし、教えてくれる人もいない。だからそのコンプレックスは、今でも続いているんですよ。バンドってかっこいいなあって(笑)。今でこそなんとなくアレンジのやり方もわかってきたんですけど、当時はまったくできないから、バンドの存在はとても大きくて今でも感謝しています。そうしないと、活動範囲が広がってなかったから。
??たしかに、よなはさんはいわゆる民謡歌手とはスタンスが違いますよね。
よなは徹:そもそも、琉球古典音楽をやってる人が、ライヴハウスで歌うということはまず無いんですよ。ライヴハウスで三線にストラップ付けて、シャツ着てサングラスして古典を歌ってるなんて、他に誰もいないですよ(笑)。だいたい、ライヴハウスに来るお客さんは、まさか古典音楽をやると思って来ていないですから、そこで古典への入り口になってもらえればいいかなって。伝統芸能は難しくないということを伝えたいんですよ。僕が東京でライヴを始めたのが、ちょうど15年前。古典音楽を歌ったら、お客さんが30人くらいから3人に減ったんです。そのとき、「みんなが知ってる曲をやってくれ」と言われたんですよ。でも、知ってる曲って、最初に演奏した時は誰も知らない曲じゃないですか。だから、聴いたことのない曲を、聴いたことのある曲にしようというのが、僕のライヴのコンセプトの始まり。だから、とにかく古典音楽をやる。それだけはぶれないでおこうと。途中で心が折れそうになったこともあるんですけど、古典音楽を入れたステージをやるようになって10数年経ちます。
??その一方で、ポップス系の人たちとのコラボも多いですよね。
よなは徹:いちばん大きかったのは、2001年に夏川りみが紅白歌合戦に初めて出た時に、三線を弾いたことかな。その後からいろんな伴奏の仕事が来るようになりました。あと、日本の伝統音楽をやってる人たちの目に止まったんですよ。高橋竹童という津軽三味線の奏者だったり、能の演者だったり、和楽器とのセッションが増えました。日本の伝統芸能と一緒にやると、基本の大切さはもちろんですが、舞台に対する心構えを再認識させられましたね。
??アルバム発表ごとに変遷はありますけど、ご自身で変わったタイミングってありますか。
よなは徹:タイミングって大事だと思います。デビュー作から4枚目までは順調だったんです。いいリズムで出してたんですけど、今回の5枚目になる『子の方(ninufa) -Polaris-』までは、前作から8年も経ってるんですよ。その間は事務所の問題なんかもあって、しかも一時期は過去の作品が廃盤になってしまったんです。その頃は、ライヴはやれてもCDを売ることが出来ないという辛い状況でした。でも、その後再発できたので、今は順調です。
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Interviewer: 栗本 斉
歌詞が先にないと作りきれない
??今回の新作『子の方(ninufa) -Polaris-』は、どういうコンセプトだったんですか。
よなは徹:ほとんどが、その空白の8年間の間に作った曲です。新曲は、1,2曲で、それ以外はわりと前からライヴで歌っている曲ばかりです。本当はバンド・サウンドのポップス系だけでまとうめようかとも思ったのですが、結果的には、島うた系が3曲、ポップスが3曲、カバー曲が2曲という、バランスのいいアルバムになりました。
??元気をもらえるアルバムですね。1曲目の「御祝さびら」から、ご長寿のお祝いの歌です。
よなは徹:もともとこれは、舞踊研究所の発表会用の舞踊曲として作りました。でも、曲自体がいいので歌詞を変えてリメイクしました。元の曲自体は、5,6年前のものですね。
??かなりポップな曲です。よなはさんは基本的に曲を作って、歌詞は他の人にお願いするというスタイルなんですね。どういう作り方をするんですか。
よなは徹:歌詞が先です。パッと曲のフレーズは作ったりすることもあるんですけど、歌詞が先にないと作りきれないんです。「許田ぬ手水節」と「屋我地マース売り」は、師匠の喜舎場盛勝先生のお芝居で『猿引き』というのがあって、その中の劇中歌なんですよ。師匠への恩返しという気持ちもありますね。先生の曲を全国で聴いている人がいるっていうことが嬉しいです。
??「許田ぬ手水節」では琴を弾いていますが、あれは普通の琴とは違うんですか。
よなは徹:そうです。琉琴という楽器で、昭和初期に知名定繁という人が考案した楽器です。少し短めでワイヤー弦を使っていて、爪も独特で。いわゆる昔の島うたのサウンドにはよく使われています。この音に合った曲をやろうということで選んでみました。
??「新エイサー節」は、よなはさんのルーツでもあるエイサーですね。スケールの大きな歌です。
よなは徹:僕のアルバムには、必ずエイサーの曲を入れているんです。エイサーのかけ声も、僕がいる地元の青年会のメンバーにきてもらって録音しました。本当は、エイサーは夏場にしか歌わないんですけどね。
??ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕」をカヴァーしていますが、なぜこの曲を選んだのですか。
よなは徹:10数年前、この曲はいろんな人が歌っていたんですよ。沖縄居酒屋なんかでもよく聴きました。でも、一時期歌う人が少なくなったと感じたことがあって、いい曲だから自分でもやってみようと思ってライヴで歌ってみたんです。そもそも僕にとってカヴァー曲っていうのは、ライヴでいうと休憩時間みたいなもの。クールダウンさせるための時間なのに、これが意外に盛り上がったんです。それで歌っていたら、3.11が起こって。この曲はもともと神戸の震災がきっかけで作られた歌だから、いつかは東北でも歌ってみたいという想いも込めてアルバムにも入れました。
??「ありがくとぅ」は、先行シングルになってますね。
よなは徹:これも、5,6年前に作った曲です。当時僕はコザのコミュニティ放送局で番組をやってて、そのエンディング・テーマだったんです。本当は一緒にラジオ番組をやってた同級生にあげた曲なんですが、本人がレコーディングをやりたがらないので、歌詞を変えて自分が歌うってことにしました。
??「いつか夢をつかむまで」もカヴァー曲ですが、これはどういう曲なんですか。
よなは徹:これは、高校生の頃にテレビか何かで聴いてから、耳から離れなかった曲なんです。誰が歌っているのかは全然知らなかったんです。それが、たまたま僕がしゃべってたラジオ番組の次の時間に、宮里赫さんという人が担当していて、その人の源天というグループのレパートリーだったんですよ。これも去年ライヴで歌ったら評判が良くて。成人式に書いた曲らしいんですけれど、「これからどんなことがあるかはわからないけれどくじけるなよ」という曲ですね。
??最後の「まく弾ち・さんしん」は、パワフルな曲ですね。
よなは徹:これは上原直彦さんから歌詞をいただいたんですが、もともとは別の人の作品に使われる予定だったらしいんですよ。その人が事情があって歌詞を返してきたことで、その歌詞が僕のところに巡ってきて。“まく弾ち”というのはテクニックで弾くという意味なので、ちょっと技巧的にしないといけないなっていうのがあって。それで、去年の三線の日のために作りました。
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Interviewer: 栗本 斉
三線一本で歌うような曲は年取ってからも出来るので、
今しかやれないことをしたい
??『子の方(ninufa) -Polaris-』というアルバム・タイトルを付けた理由は。
よなは徹:少し前にベスト・アルバムを出したんですけど、そっちは『とぅなか』というタイトルなんです。この“とぅなか”っていうのは、旅の航海の途中の大海原という意味なんですね。広い海にぽつんと船に乗っていると、方向を知るには北極星しかない。進むべき道を定めていくという意味で、北極星の意味を持つ“子の方”と名付けたんです。まだ旅の途中で、行き着くところは決まっているけれど、どうやっていくかははまだ定まっていないというイメージです。
??ということは、よなはさんの音楽人生もまだまだ発展途上ということですか。
よなは徹:そうですよ。僕のアルバムのタイトルは全部つながっているんです。最初の『よざれ節』というのは、世の中をいい意味で皮肉っているという意味。まずは名刺代わりになればいいかなと思って。その後から県外に行くことが増えたので、2作目の『三味連りてぃ』は、三線を持ってどこにでも行きますよという意思表示。ちょうどそのあたりからはいろんな人たちのサポートやセッションに参加するようになったので、交流のあった人たちに協力してもらって作ったサード・アルバムは『宴 ~party~』。でも、やっぱり今一度自分の原点を見直そうと思って作った島うたう系のアルバムが4作目で『Roots ~琉球祝歌~』。そして、ベストと新作へとつながるという感じですね。
??では、今回は一度リセットしたという気持ちなんですか。
よなは徹:そうですね。そういう感覚はあります。
??ということは、次作のイメージもありますか。
よなは徹:いやまだまだですけれど、もしかしたら『Roots 2』のような内容になるのかもしれない。ただ、オリジナル曲ももっとやりたいし、バンドも充実させたいなっていうのがあるのでわからないですね。三線一本で歌うような曲は年取ってからも出来るので、今しかやれないことをしたいですね。
??直近の目標はなんですか。
よなは徹:とにかく、いろんなところで歌いたいですね。とくに、沖縄県内でもっと歌いたいです。実は沖縄って僕のような人が歌える場所がなかなかないんですよ。
??でも。内地ではひんぱんにツアーもされているじゃないですか。
よなは徹:そうです。逆に東京ならいつでもライヴが出来るんですよ。でも、沖縄でもしっかりと歌えるようになりたいというのが目標ですね。
??海外にもよく行かれているだけに、意外な答えですね。
よなは徹:沖縄で歌いたいし、バンドでイベントにも出てみたいです。僕、夏フェスとか出たことないんですよ。もう夢なんですよ(笑)。いつまでも東京を頼りにしたくないというか、常に地に足を付けて活動したいんです。だから、そろそろ沖縄でしっかりやらないとなあと思っています。
??では最後に、“楽園おんがく”と聞いて何を思い起こしますか。
よなは徹:身近に歌える音楽、生活に密着した音楽こそ、楽園の音楽なんじゃないかなと思っています。上手いとか下手とかではなく、その人の心の中に流れる音楽が、楽園の音楽じゃないかな。
??じゃあ、夕方になると聞こえてくる三線やエイサーの練習とかは。
よなは徹:そうそう、まさにそれが僕にとっての楽園の音楽ですね。あの音色を聴くと、今でもワクワクしますから。
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ライター
Writer:栗本 斉 Hitoshi Kurimoto
旅と音楽をこよなく愛する旅人/旅&音楽ライター/選曲家。
2005年1月から2007年1月まで、知られざる音楽を求めて中南米へ。2年間で訪れた国は、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、トリニダード・トバゴ、パナマ、メキシコ、キューバの、合計14カ国。
帰国後は旅と音楽にこだわり、ラジオや機内放送の企画構成選曲、音楽&旅ライター、コンピレーションCD企画、ライナーノーツ執筆、講演やトークイベント、ビルボードライブのブッキング・コーディネーターなどで活動中。得意分野はアルゼンチン、ワールドミュージック、和モノ、中南米ラテン旅、世界遺産など。2013年2月より沖縄県糸満市在住。
Interviewer: 栗本 斉
子の方(にぬふぁ) ~Polaris~
2015/02/25 RELEASE
QACJ-30035 ¥ 2,750(税込)
Disc01
- 01.御祝さびら
- 02.許田ぬ手水節
- 03.屋我地マース売り
- 04.新エイサー節
- 05.満月の夕
- 06.ありがくとぅ (アルバムヴァージョン)
- 07.いつか夢をつかむまで
- 08.まく弾ち・さんしん
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