2019/01/26
私にとって2010年代は、「仮説」と「論証」を繰り返している10年間だ。パブリシティで報じられる「世界で日本は大人気」の類は、誤りではない。しかし、世界と正面から付き合っている方々なら分かるように、事実の一部を切り取ったものにすぎない。日本文化を愛好してくれるコアな層(Loyal Customer)より、その外側にいる一般の方々(General Public)の方が、はるかに大多数だ。
世界中で開催されている日本文化フェスには、数千、数万の人々が訪れる。東京で例えれば、代々木公園で開催される「タイ・フェス」「ベトナム・フェス」のようなものだ。どれぐらいの近所の方や、友人・知人が訪れるだろうか?世界中の日本フェスを訪れ、会場内の熱気を感じた後、一歩、会場の外に出たら、日本の気配すらないことは、稀ではなかった。
10年代は、「個の時代」の本格的な幕開けだった。情報伝達手段として、「放送」と「通信」は融合しつつある。放送とは「broadcast」、「広く、放り投げる」の和訳。19世紀の電波の発見からラジオ、テレビへと発展した。これに対し、通信は「communications」、人間同士の意思疎通を起点に、電報、電話など、テクノロジーの進化を得て、PCやスマホ等へと遷移した。「ネット」の意味も、放送と通信では異なる。放送では「ネットワーク=局同士の網」を意味する。ネットを外れると、地域情報を日本全国、さらには全世界と共有することが難しくなる。通信では「インターネット=個同士の網」を表し、国境を簡単に越えることもできる。
私は、インターネットを通して「個」と交流するだけでなく、実際に視聴者に会い、コミュニケーションを取りに行くことを、可能な限り進めた。その段階で、仮説が間違いだと認めざることを得ないこともあった。そのうちの1つが「視聴者は、家族全員が日本ファン」というものだ。当初、私は、かつてのチャンネル争いのような家庭像を想起していた。決定権を持つ「親世代」が日本ファンで、彼らはニュースを観る。その「子供世代」はリモコンを奪い、ポップ・カルチャーの番組に切り替える。少し前の日本で、よく見かけた風景だ。実態は異なっていた。
最初に訪ねたのは、2010年、台北郊外に住む10代の男性だ。両親と暮らす団地に自宅は、一見、日本の気配を感じるものは一切なかった。自室に招き入れてくれた彼は、ベッドの下にある大量の漫画を見せてくれた。自分だけの楽しみだと語った。
翌年、米国・クリーブランド郊外の視聴者の女の子の自宅を訪れた。彼女の部屋には、日本の女性アイドルの写真がたくさん飾ってある。しかしながら、両親は日本文化には関心はない。娘さんは、自室で一人、番組をストリーミング視聴していた。
ブラジル南部の都市・クリチバには、見事にGLAYの「HOWEVER」を歌い上げる視聴者がいた。GLAYのメンバーに映像を観せると、レベルの高さに感嘆し、「ライブにおいでよ」とメッセージしてくれた。彼の両親は、特段、日本ファンということではなかったが、歌声に心を揺さぶられているのが見て取れた。
世界中、どの地域でも、「他国の文化を好きになることは良いこと。だから、応援する」という声を、家族からは聞いた。どんなにネットが進化しても、「実際に会う」ということを超えることはできない。「オンライン・データ」だけでは、木や枝は見えても、森の全体像が見えないからだ。「オンライン」と「オンエア」を掛け合わせたものが、放送の未来のあるべき姿だと、私は思う。これからも体力の続く限り、世界中の人々と会い、話を聞きたいと考えている。Text:原田悦志
原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明大・武蔵大講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
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