2018/09/27
遂に、というべきだろう。庄司紗矢香が、彼女ともう共演歴の長いロシアの巨匠、テミルカーノフと手を組んで放つこのアルバムには、ヴァイオリン協奏曲の歴史に燦然と輝く金字塔たるベートーヴェンと、この曲やメンデルスゾーンにブラームスとあわせ、4大協奏曲とも呼ばれる、シベリウスのヴァイオリン協奏曲が収録されている。
庄司のベートーヴェンといえば、イタリアの知性派ピアニスト兼作曲家のジャンルカ・カシオーリとのソナタ全集が素晴らしかったこともあり、ベートーヴェンの録音は、長らく待ち望まれていた。
ベートーヴェンの全楽章を通じて、いや実はシベリウスの全楽章も含めて、アルバム全体そうなのだが、心持ち遅めのテンポで、じっくりと歌い込むスタイルだ。オケの特質やサイズもあって、昨今世に溢れる機動的な流麗さではなく、厚い響きを活かした正攻法のアプローチを一貫して取る。
というわけで、ベートーヴェン第1楽章の長いオケによる序奏もたっぷりと鳴らせたあと、そこに、艶やかな庄司のヴァイオリンが入って来る。陰翳のコントラスト豊かな庄司の音色は掛け値なしに素晴らしく、とりわけテンポを更にぐっと抑えた展開部の後半以降が真骨頂。時々刻々と表情を変え、この超絶名曲から、パーソナルな未聞の響きを生み出し、真価を十全に発揮している。
カデンツァは、よく知られたヨアヒムやクライスラーなどのものではなく、庄司自身が2008年に書き下ろしたオリジナル。もちろん技巧的見せ場もありはするが、あざとさはなく、やりすぎもしない。ベートーヴェンの様式感を大切にし、なにより曲全体の調和を崩して遊離してしまわぬよう、細心の注意を払っている。
第2楽章ラルゲットのテンポは第1楽章に輪をかけてゆったりとした音楽だが、包容力ある音楽に包まれる。アタッカで入るロンド・フィナーレは、最初は低音域で、続いて高音域で繰り返されるロンド主題から、庄司の天翔るファンタジーと迸る情熱で、説得力のみならず情感にも訴える演奏だ。
ベートーヴェンの協奏曲は、上っ面を弾くだけならば、難易度は高くはない。しかし、ひとたび全ての音を鳴らし切る完成度を求めた途端、恐ろしく苛酷なハードルを課す超難曲と化す。音符のただ一つ弾き飛ばすことのない庄司のこの演奏を聴いていると、改めてそのことに思い至らせてくれる演奏に仕上がっている。
カップリングされたシベリウスの方は、「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」、という指示のある第1楽章を例にとれば、この「悠然」たるさまを志向する、という意味で、マクロな方向性は同じである。ただ、凍てつく雪と氷の世界の奧にひそむ熱源を掘り当てる庄司は、この曲に燐光を放つ、青白き情熱の熾火を灯す。
第1楽章は、ソナタ形式を踏襲しているとはいえ自由な形式で書かれていて、曲調は前触れなくいきなり変わるためにあまり有機的連関を感じられないが、提示される主題は後続する主題の素材となっているのが特徴だ。それゆえ、自由さにあぐらをかいてロマンティックな表現を追い求めすぎれば得体のしれぬグロテスクなものが出現するし、形式面での細部にとらわれすぎれば、こんどは脈絡不明な連続体に堕す、という意味で、さじ加減が非常に難しい。庄司とテミルカーノフはその境界線上にある細い道を、慎重に慎重に、ひたすら辿ろうとする。
さざめく弦の上で第1主題を奏す、庄司の琥珀色の音色に、一挙に引き込まれる。取り組む相手がシベリウスであっても、庄司はヴィブラートを盛大にはかけず、背筋の通った折り目正しい演奏を展開する。重音での第2主題は情熱的で、音程もビシッと決まっているのは、高い技巧を持つ奏者に対して改めて言うべきことでもないだろう。オーケストラによる第3主題でオケのアンサンブルが少々乱れるのもご愛敬、そのあとに古典的形式を打ち破って、展開部のようにはじまるカデンツァは、その技巧的難度を感じさせないほど、とにかく自然だ、
アダージョ・ディ・モルトの第2楽章主題は、実に朗々たる歌いっぷり。中間部で、咆哮させた途端に興ざめしかねない金管を抑制するテミルカーノフの手腕もさすが、庄司と手を相携え、シベリウスが書いた、最も神秘的な音楽のひとつを、神々しい光の中に導く。第3楽章ロンドは、この楽章でキモとなっている、低弦セクションが刻むリズムに乗って、最初G線を弾く主題の生命力横溢した躍動感、これに尽きる。
2つの協奏曲とも、庄司紗矢香というアーティストの、まっすぐなひたむきさを強く印象づける。安易な外向性を峻拒し、一つ一つの音符に対して正面から切り結んだ誠実さの記録、ともいうべきこの録音、今後も末永く耳を傾けたくなる一枚である。Text:川田朔也
◎リリース情報
庄司紗矢香
『ベートーヴェン&シベリウス: ヴァイオリン協奏曲』
UCCG-1811 3,240円(tax in.)
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