2018/08/10
灯りの落ちたステージ。中央に置かれたピアノに当てられた光の輪にむかって、老巨匠がゆっくりと歩を進めてゆく。そして、さほどの時間をおかぬ間にネルソン・フレイレが鍵盤に指先を落とすと、じんわりと暖かい音の波紋がひろがって、聴く者の肌に滲みわたり、聴き手はぬくもりある音のめくるめく空間に搦めとられてしまう。そんな強力な磁場を生み出す力を、このブラジルの名匠は備えている。
第1曲目はベートーヴェンの『月光』ソナタ。第1楽章はやや早めのインテンポを軸に、アコーギクも大仰に効かすことない、虚飾を削ぎ落とされた演奏だ。珍しいミスもあったが、この初学者にも弾ける平易な楽章は、一頭地を抜く音色コントロール技術を掌中にした世界第一級の名人の手にかかってこそ珠玉の作品となることを、改めて思い知らされる。第2楽章は、タッチの微細な変化を愉しませ、る、第1楽章より当然明るめな琥珀色のサウンドで、ユーモアを交えて開陳された。上行する閃光のようなアルペッジョで開始される音楽の勢いに任せ、音価をやや切り詰め、前へ前へと前進する駆動感に満ちた第3楽章は、コーダへ向けて引き延ばされるはずの減七和音によるフェルマータの沈黙もほんの束の間、ひといきで弾き切られた。気負いや気取りとは、なんと無縁の演奏であることか。
続いて、同じくベートーヴェン最晩年のピアノソナタ第31番。第1楽章冒頭の主題提示の優美さ、走句におけるアルペッジョの軽やかなきらめきとも、この世のものものとは思えない美しさに息を飲む。両端楽章のテンポ設定ははり少々早めで、思い入れたっぷりに歌い込むのではなく、清々しく、こう言ってよければ若々しい創造力の奔出を感じさせる。最終楽章など、あのアリオーソ・ドレンテの嘆きの歌もサラっと弾く姿に、最晩年とはいえ、まだベートーヴェンは、いまのフレイレよりも断然若い50代であったことに思いが及ぶ。2つの3声のフーガは、各々の声部を明確に描き分けることよりも、それぞれの線が絡み合って生み出す総体としての響きに意を砕き、そして立ち現れてくるのは天上的なまでの清澄な音楽だ。この演奏を聴いて「深みが足りない」、という種類の感想を抱く向きもあろうことは容易に想像できる。しかし芝居がかった荘重さ、あるいはけれんみとは無縁のスッキリした演奏でも、ベートーヴェンの天才は十二分に立ち現れてくる。フレイレは、限り無く透明になって舞台の上で掻き消えようと努めるタイプの演奏家であることを再確認する。
後半はブラームスの作品119からはじまった。デビュー録音をブラームスで飾ったフレイレにとって、ブラームスは十八番のひとつであることもあり、文句のつけようのない。ベートーヴェンのフーガ同様に多声的で、譜面にはブラームスが細かく指示を書き込んでいる第1曲では、それらの指示を押さえつつ、自らの幻想を解き放つ。煩悶と不安に苛まれる第2曲、一転して華美な第3曲における複雑なリズム処理の巧みさ、特に和声の移ろいを切り出す丁寧な造形は心憎いまでで、ブラームス晩年の音風景を鮮やかに描出していた。
昨年のリサイタルではプログラム変更により幻となったドビュッシーからは、得意としている『水の反映』と『金色の魚』。テクスチュアの折り重なりを感じさせつつ、フレイレというピアニストが備えた圧倒的な音色のパレットを開陳するが、かといって色彩過多による華美さに流れたり、音色にのみ拘泥した柔弱さに陥ったりすることがない。アルベニスの『エボカシオン』に『ナバラ』もまた得意のレパートリーだけに堂に入ったもの。これらの曲を聴いていると、フレイレという人の趣味の良さーー品の良さ、と言ったほうが正しいだろうかーーとしか言いようのない天性のものを感じないわけにはいかない。
アンコールは4曲、いずれも素晴らしい出来だったが、何度も舞台に呼び戻されたあと、最後に披露した、フレイレのアンコールピースとして定番中の定番、グルック=ズガンバーティの『精霊たちの踊り』の静謐感たるや鳥肌もの。演奏ののち、長い拍手を聴衆たちが送るなか、宴の終わりを告げるべく会場のライトが点灯しても、舞台上でにこやかにその拍手に応えるフレイレにむけ、会場の喝采はしばらく鳴り響いた。Text:川田朔也
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